対自自我と即自自我

 午前中口腔外科の診察を受ける。 レントゲンで口の周り二〇〇度位のレントゲンを撮り、その後診察を受ける。 ほんの少しだが歯槽膿漏が進んでいるとのことである。 午後から歯石を取ってもらう。 明日胸骨や肋骨のCTを撮った後日曜日の午前中まで外泊が許される事になった。

 自分の書いたものにいちいち自分で解説したり解釈したりするのは本意ではなくて、そこのところは読む人が勝手に読み取ってくれればよいことなのだが、今日はお節介にも書く。 昨日や一昨日の日記で言いたかったことは、 娘にしても友人にしても引きこもったり、学校に行けなくなったり、うつ病になったり、どこの誰であれ人の一生には突然襲ってくる不遇な時があるということである。

 それを最近はたとえ一時的な事であれ不遇な時あったりすると、自分のキャリーに傷が付く、などと言ってあからさまに嫌う風潮がある。 もちろんそのような苦節の時期、不遇な時期がないならばないにこしたことはよりベターでであると言えるが、そうは中々上手くいくものではない。 また逆に何があるから分からないからこそ人生は面白いといえるのである。
 友人の場合、今の時代に何かと難しい学校という組織をまとめていく資質があったのだろうが、その事を見つけ出し、抜擢したミッションスクールの理事会の人達もなかなかのものだと思う。 まずキャリアーに汚点がないことだけを大切にする公立の学校の人事などでは考えられないことだ。 彼もその理事会の要望に応え七年間その勤めを務め上げ今年自分から後輩に身を譲ることを申し出たということである。 

 逆境や不遇の時にこそ、その人の人となりつまり自我というのは磨かれ、厚みを増すもののようであるが、必ずしもそのように良い面が残るとは言えないところもあるのだ。 いじめ抜かれ過酷な体験を潜り抜けてきた人が、皆人の心の痛みを知って思いやり深い人になるかといえば、そうとも限らない。 世の中にはそれだからなお一層底意地の悪い人になる人だっているのである。 環境によって一方的にその人の人となりつまり自我が決まるわけではない・・・その環境をどう受け止めて心の内部で自分を作っていくかによって自我が決まるのだ。


 また哲学的な話になってしまうのだが、人を以下のように二種類に分けることができると思う。
 その区分けにはいろんな分け方があるのだろうが、人の自我の在り方で二種類に分けろ分け方が可能だと思う。 区分けされた人のその在り方をオフは勝手に即自的自我と、対自的自我と名付けている。 即自的自我というのは、まず自分があり、自分の周りの世界、家庭とか郷土とか、国家とか人類とか世界が同心円状になっていて、枠が大きくなるほど円が広がっている形を想定できる。 それに対して対自的自我というのは、自我の円があってそれとは別の点を中心に持つ他者というものがあり、例えれば細胞の中にミトコンドリアのようにかさならない別の種の円があるような形を仮に想定している。
 この対自的自我のようなあり方を持つ人は、その成長過程で何らかの変形的な圧力を受けて、あるいはつまづきとか、挫折とかを経験し自我を同心円的に育てることが出来なかった人達の形だと思っている。 もちろんどちらの形が良いかという問題は別である。
 簡単に言ってしまえば、即自的自我を持つ人は、郷土愛とか国家とかを自分の延長で素直に信じている人達であり、いわゆる愛国的な人達がそうである。