多様な心と自由

 体調はおおむね横ばいで推移している。 強いステロイド剤のおかげで熱は下がり、多分腫瘍からきていたCRP値もある程度下がっていると思う。 ただ貧血が続いていて、立っていたりしばらく坐ってと血液が下部に下がり苦しくなる。 これも今週末輸血で少し改善することを願っている。
 前回のブログで少し気になったことがあるので、今日はそれについて再び少しふれる。 今回下の息子がお見舞いに来たのは、彼女との結婚を決めたということを報告もあったのだ、と彼のブログに書いていた。 アレレそれはもうすでに決まっていたんじゃなかったか、とこちらがかえって驚いてしまった。 それはそれでよかった、おめでとう!言い添えたい。 ところが彼女にとっては母親が亡くなってまだ日が浅い。 そんな時にそんな話を持ち出すことは不謹慎ではないか、と言って眉をひそめる人々は世の中には少なくない。 せめて四十九日の喪明けか、年を越してから・・・というのがその人たちの常識ということになるのだろう。 オフの場合、前妻を亡くした直後から異様なハイ状態になり四十九日中もそれは続いていていたが、北陸に雪が降り出した時に突然ウツ状態に陥ってしまった。 前にも一度書いたが、夏の日ちょっとしたキッカケがありそのウツ状態から突然抜け出せた。 自分ではその時が本当の意味で心の喪明けだったと思っている。 一人一人の人は多様である。 人の感情というのはなかなか複雑で一筋縄でくくれるものではない。 つまり人は決められた生き方の沿って生きているのではなくて、それぞれの人がそれぞれ多様な心模様の中に生きているのである。 それを外部から、決められた常識や昔からの習慣を持ってやかく言うことで事を良しとしている人たちも多々いる。 しかしそんな人たちでも実際の自分の心の中を真摯に見つめれば、決してそのような常識や習慣通りに生きているわけではないだろう。 人は、というより生命というものは多種多様に生きていて今日の生命があるのである。 その多様さこそが自由ということに通じているのだが、その自由は自分勝手な自由であっては、それはたんなる自己チューとなってしまっておかしな犯罪などに行き着くことが多い。 自由に生きることはその背後のその自由を選んだ自覚と責任がつねに付きまとっているのが覚悟されていないからだ。 母親が亡くなってから日が浅いのに早いのに・・・などと言って人の生き方を一括りにしたい人たちには何とでも言わせておけばよい。 それよりも当人同士のこれからの生活への自覚と責任を、深く心に受け止めて生きていくことだろう。 それを的確に表現している言葉がある。 言い古されてきた言葉だが、<健やかなる時も、病める時も、富める時も、貧しき時も、ともに相手と手を携えて生きていくか・・・> きわめて簡単そうな言葉であるが、なかなかこの言葉の意味は奥深いと思う。