再入院して今日で二週間たった。 いよいよ明日からは二度目の自家移植治療が始まる。 病院での治療とそのダメージから立ち直り、何とか最低でも日常生活できるようになるまで一ヵ月程かかることになる。 その後退院して副作用から抜け出るまで半年から一年掛ると言われている。 という事は何とか回復と言えるまで今年いっぱいぐらい掛るということであり、それを今覚悟している。

 病室でノートパソコンを使っている。 パラマウント式のベットの背を起こして、膝の上にパソコンを置いて使っている。 ノートパソコンだから画面は液晶である。 パソコンを開いてスイッチを入れるがしばらく暗い液晶は光らなくて黒いままである。 パソコンが立ち上がってくるまで、その黒い画面を見ていると、そこに自分の顔が映っているのが見える。 そのしばらくの間、黒いその画面に映る自分の顔を見るともなしに見てしまう。 オフは自分の顔を見るのが嫌いで、普段から出来るだけ鏡などを見ないようにしているのだが・・・画面が黒いせいかここのところ何度かその黒い画面に映る自分の顔を凝視した。 病んで老けた老人が厳しい顔でこちらを見ている。 いつ見ても嫌な顔であるが・・・痩せたせいか以前より面長になったし、皺もずいぶん増えた。 自分で自分の顔を見つめ続けるのはつらいものである。 
 西洋の画家はよく自分で自分の顔を描く。 オフがすぐに思い浮かぶのはゴッホとかレンブラントピカソなどであるが、その中でも特に印象深い絵にゴッホの自画像がある。 自分で耳を切った後描いた自画像や、キャンバスに向かって絵を描いているいろいろな自画像がある。 自分で自分の顔を描こうと思ったからには、それを描くことは面白いとか、意義がある、そう思ったからだろう。 特にゴッホが自分で自分の耳を切った後、包帯をしたそんな自分を描いてみたいと思ったのはどうしてなのだろう。 そこに描かれたゴッホの顔を見ていて思うのはいつも、この人はいったい何を思いながらこの時自分の顔を描いていたのだろう、という疑問が湧いてくる。
 顔というのは当たり前のことだが人間の身体の一部分である。 だが、手や足などと違ってそこに見えているのは単なる身体ではなくて、そこにいるのは自分そのものでもある。 という事は身体のその向こうに隠れている意識や自我があり、つまるところそれらを含めて自分がいる訳である。 また今の自分があるだけでなく、これまでの自分も隠れている。 決してきれいごとばかりで過ごしてきたわけではない。 時には嘘もついたし、恨みも持ったし、裏切りもあった。 逃げもしたし、人をいじめもしたし見て見ぬふりなどもした。 そんな諸々があって今の自分がある。 自分の顔を直視していると、逃げ出したいほど恥ずかしいことや、言いようのない不可思議なことも含めてそこにすべてがあるのが見えて来て、最後には恐ろしくなってしまう。 わけが分からなくなって、息がつまりそうになって、いつもの様にハァと息を吐いて自分の顔から目を逸らすことになってしまう。