熱が続いている

 月曜日に退院してから毎日熱が出ている。 その日によって少し違うが、大体夕方から朝にかけて熱が出て、寝汗をかく。 パジャマやTシャツを夜中に数枚着替える。 38度台の熱が出たのが二回あって、その時は解熱剤のカロナールを飲んで熱を下げた。 感覚的に体内でジワジワと再発が進行していると思うが、明日診察、採血を受けて、その結果を見るまではっきりしたことは分からない。 サリドマイドの治療が始まるのはいろいろな誓約書など提出した後の連休明けになるというのだが、それまで進行しないのだろうか。 先の再発の時も急激に病状が進んだが、再びそうならないとは限らない。 幹細胞の自家移植(タンデム)をして、少なくとも三年ほどは再発がないだろうと言われていたが、結局半年で再発してしまった。 その後のベルケイドによる治療も半年ほどしか持たなかった。 最後のサリドマイドがどの程度持ちこたえてくれるのか・・・

 前にも触れたが、「人間臨終図鑑」を書いた山田風太郎氏は書いている。
 ≪この地上で無限の虫たちが草葉の陰で死んでいくが、実は自分だってその虫ケラの一匹と同様なのである。 自身という個体の永遠の消滅とか、人間のプライドとか、大げさに特別なものと思わぬほうが良い。 死に場所が何処であろうと、そこが草葉の世界だと思えば良い。 そして今…虫の一匹が死んで往くだけだと考えた方が、素直に安心立命の境地に達せられるだろう≫
 たしかにその通りである。 沢山の有名人の死を拾い集めて本にした山田氏は、死に際してオタオタするな、と言いたいのだろうと思う。 人の死を高い位置から俯瞰的に眺めれば、人の死などはたしかに虫の死以上でも、以下でもないだろう。  最近<無縁死>という言葉がマスコミなどで使われているが、大多数の人はまわりの人々と有縁の関係の中に生きている。 人間は虫とは違って社会やいろいろな集団を作り、その中で人とかかわり、社会生活を営んでいる。 家族とか、会社とか、地域共同体とか・・・そのようなさまざまな社会のネットワークの中で生きている。 死はそのネットワークの繋がりを突然断ち切ってしまう。 まわりの人にとっても、本人にとつてもその繋がりがある日突然断ち切られるわけである。 ある日突然望みもしないのに内外から縁、繋がりを断ち切られることを人は恐怖する。 それにくわえ人が死を恐れるのは、自身の死によって時間が断ち切られることである。 近代的なものの考えによると、時間とは過去から未来に向けて一直線に続いていて、人(自我)はその時間の中に身を置いて生きている。 誰もが時間の中に生きているのだが、それが自分だけがある日その時間を断ち切られ、過去における有象無象の記憶を断ち切られ、その時点で自我も消滅してしまう。 これまで生きて積み重ねて作り上げてきて自分というものを成している、蓄えられた意識や無意識、それらがすべて合わさって自分を作っている自我がある日突然失われてしまう。 それが自我にとって許せないことであり、恐怖なのである。
 昔から人は永遠にあこがれている、自我が永遠に生きることをだ。 だがそれは儚い夢でしかないことをもどこかで知っている。 そこで自己の死を自我が価値を置くもの、有意義と思うものに託して死ぬことで永遠に繋がることを望んだりしてきた。 それをあえて否定はしないが、幻想であることに変わりない。 俯瞰すれば人はやはり虫けらのように死んでいるのである。