家出

 昨日昼過ぎから熱が出て、38・1度と38度ラインを超えたので、レスキューで貰っている解熱剤を飲んで熱を下げる。 夜になってベッドへ入ったのだが、夜中に悪寒がして目が覚め体温を測ると38・2度。 タオルケットで身を包んでいたが下がる気配はなく、再び量ると38・6度、再度解熱剤を使う。 何でここへ来て突然熱がでたのかよくわからない、それがやや不安である。

 前回に続き田舎での話を書く。40歳を過ぎてから、土地を求め家を建ててそこへ引っ越した。 引っ越した先の部落は戸数はせいぜい三十軒弱の小さな部落で、そこの外れに家を建てた。その部落での話であるが、おそらく今から50年ほど前の昭和30年代頃の話ではないかと思う。 オフの家から外へ出ると四軒の家が見えるが、その内の一軒の家の嫁さんが男としめし合わせて家を出た。 その相手の男というのが同じ部落の街道沿いにある家の妻も子もある男だということだった。 狭い部落のことだから多分大騒ぎになってその話で持ちきりなっただろう。 ところが二人の居所はすぐにわかった。 10キロも離れていない隣の町でアパートを借りてそこに住んでいたのだった。 簡単にわかったのは二人とも仕事を持っていて勤めに出ていて、その職場を辞めていなかったからである。 多分いろんな人が立ち代りアパートへ行って二人に戻るように説得しようとしただろうが、どう言われようと二人は首を縦に振らなかったという。ところが数ヶ月か一年後かわからないが、ある日二人はそれぞれ自分の元の家に戻ってきた。 おそらく両家では出て行ったとき以上のゴタゴタした騒ぎが持ち上がったことだろうと思う。それからしばらくして家を出た嫁さんがどうやら妊娠しているようだと噂がたった。その通りでその嫁さんは数ヵ月後男の子を生んで、その子を旦那との間に出来た家の子として育て始めた。 また噂が立った、旦那は種無しだというのである。 それに対してその噂の当人はとくに否定もしなかったので、そういうことになった。 一連の騒動はそこまでで、また部落はもとの静けさを取り戻した。 部落の中には昔の話をいまだに影でゴチャゴチャ言う人(女)がいるのである。 もっともそんな人がいたからこそオフもこの話を知ったわけだが・・・。 部落の大概の人たちは済んでしまったそんな話を口をつぐんで語ったりしない。
 部落に加わったオフは常会などに呼ばれてそこへ出席していたのだが、今は初老になっていた男二人も出席していた。 二人の間はとくに仲が悪いとかそういうこともなく、むしろ仲がよいふうにも見えた。というのはある時、何かで急遽3千円を集めることになり、種無しと言われているほうの男が「今日は家に財布を忘れてきたので後日にしてくれ」、と言うとたまたま幹事をしていた連れて逃げた男が、「今日は俺が払っておくから後で返してくれ」と言って金を立て替えたりしているのも目にした。それがごく自然な感じだった。
 以上の話は今の人にとっては笑えるような馬鹿みたいな話かもしれない。戦後、民法の長子相続が廃され戦前まで続いていた家族制度が解体された。しかしまだまだ昭和30年代には家族制度は根深く人々の中に根付いていた。これはそんな時代の流れのはざまの中で起きた些細な事件の一つだろう。
 その後男の子は大きくなり役場の職員になり嫁さんを貰い、二人の男の子が生まれた。上の子供が小学校に上がった頃だっただろうか、今度はこの若い嫁さんが家を出てしまった。手引きする男がいたとか、単身で都会へ行ったとか、いろいろ言われていたようだが真相はわからないままである。 残された子供の世話はおもにかって男と家を出た祖母が見ることになった。 いろいろと問題が多いので、子供たちが年頃になってグレなければよいがなぁ、と思って見ていた。しかしすでに子供たちがグレる兆候は幾つか目にしていたが その後オフも神戸に来てしまい、おまけに病気で帰れなくなったのでその後のことはわからない。
 オフとしては何となく若い嫁さんが家を出たのはある程度仕方がないと思えた。ただこの話を聞いたとき、もう昔とかなり違っている、何で若夫婦は子供二人を連れて家を出なかったのか、と疑問に思った。だがそこまで行くとその家庭内の親子や夫婦などの複雑な人間関係や事情が絡んでくるので、外部からはとやかく評しても仕方がないことである。 とにかく息子と子供二人は家に残って嫁さんは出て行った。

夜這い

 梅雨明け10日というがまさにその通りの暑さが続いていて、今日はその頂点とされる大暑である。 とにかくこんな時期は静かにしていることだと、出来るだけベッドで横になるようにしている。 元気な頃は夏ほど食欲が増して夏痩せなどとは縁がなかったが、ここのところ味覚が変で、何を食べても苦く感じるので当然食欲もあまりわかない。
 先日佐野真一著の「宮本常一の見た日本」を読んだ流れで「忘れられた日本人」を再読している。 前にも書いたがこの「忘れられた日本人」は、柳田国男の「遠野物語」と並んで民俗学の双璧をなす名著だろうと思う。 何度読んでも面白いし考えさせられる。 幾つかの話に分かれているのだが、それぞれ日本の民衆の日常生活の一端を垣間見せてくれている。 そしてどの話も男女関係の性の話が基調となっている。 その中に夜這いはどのようにして行われていたのかという話を古老が語っている。

 夜這いもこの頃はうわさもきかん。 はぁ、わしら若い時はええ娘があるときいたらどこまでも行きましたのお。 美濃の恵那郡の方まで行きましたで・・・さぁ三、四里はありましょう。夕飯をすませして山坂を越えていきますのじゃ・・・ はぁ、女と仲ようなるのは何でもないことで、通り合わせて娘に声をかけて、冗談の二つ三つも言うて、相手が受け答えをすれば気のある証拠で、夜になれば押しかけて行けばよい。 こばむもんではありません。 親のやかましい家ならこっそりはいればよい。 親はたいてい納戸にねています。 若い者は台所かデイへねている。 仕事はしやすいわけあります。 音のせんように戸をあけるには、しきいへ小便をすればよい。 そうすればきしむことはありません。 それから角帯をまいて、はしを押さえてごろごろと転がすと、すーっと向こうがわへころがってひろがります。 その上をそうっと歩けば板の間もあんまり音を立てません。 闇の中で娘と男を見分けるのは何でもないことで、男は坊主頭だが女はびんつけをつけて髪を結うている。 匂いをかげば女はすぐわかります。 布団の中へ入りさえすれば、今とちごうて、ずろおーすなどというものをしておるわけではなし・・・。みなそうして遊んだもんであります。
 そんな夜這いだが、村の中ではそれなりの不文律のルールがあったみたいで、別のところで博労だった土佐源氏は以下のように語っている。 「わしらみたいに村の中にきまった家のないものは、若衆仲間にもはいれん。若衆仲間にはいっておらんと夜這いにもいけん。夜這いに行ったことがわかりでもしようものなら、若衆に足腰たたんまで打ちすえられる。そりゃ厳重なもんじゃった」

 たしかに夜這いという言葉も今の若い人には意味不明の言葉になっているのかもしれない昨今である。 田舎にいた頃その夜這いについてちょっとした話を聞いた。 パチンコに来ていた知り合いのお客がパチンコをしている別のお客を顎で指して、あの男はこの前夜這いに入った男だ、と教えてくれた。 その話によると夜中にある家へ夜這いに入った男だが、あろうことか間違えて婆さんの部屋に忍び込んだんだよ。 驚いたのは婆さんで、びっくりするやら少しうれしい(笑)やらで大声を上げて騒ぎ出したので、近所にも知れ大騒ぎになったという。 ちょうどその家の旦那は出張中だったが、それを狙って忍び込んだのだが、いやねぇ、どうしてあいつがそんなことを知っていたかというと、そこの嫁さんが旦那が留守だということをそれとなく知らせていたんだいうもっぱらの話だがね。 あの夜這い男はそれまで農協に勤めていたのだが、その話が広まってしまいとうとう農協をクビになってしまったんだよ。 見るとその男はそんなことあったのかとでもいう風で、夢中になってパチンコの台に向かっていた。  

佐野洋子著「シズコさん」

 昨日夕方病院へ電話して、先週の採血時のIGGの値を聞く。 2110→2530→2238と下がっていたのだが、その数値を聞いてホッとした。 もし値がこれまでのペースで3000ぐらいにまで上がっていたらどうしようかと思っていた。 ここのところ採血のデーターは悪くなる一方だったこともあるが。 次の回の採血の結果次第だが、その時にさらにいくらかでも下がっているとするならば、このままサリドマイドを続けるのも悪い選択ではないことになる。 次のレナミドマイドはサリドマイドの前躯体で、いわば親戚筋みたいな薬だから似たような結果が出て、せめて2000を切ることを期待したい。 ただサリドマイドの副作用がじわじわ出てきている。 足の痺れは少しずつ増しているし、口内が乾き咽喉が痛くなる、味覚がおかしいなどなどと、もう一つやる気が出てこないでボーットしているなどなど。 ここのところの暑さで亡くなる人が急増して都会の火葬場では焼却するのに一週間待ちとなっているところもあると聞いている。

 この間佐野洋子著の「シズコさん」を読んだ。 佐野洋子、ン?・・・どこかで聞いた名前だなぁと思っていたら、昔「100万回生きた猫」という絵本があって、その絵本の作者だったことを思い出す。 当時少し話題になっていたので、前妻がまだ子供だった息子や娘のために買ったのだろうと思うが、いろんな面で新しい話題性を持っていた。 まずその本の大きさで、当時は絵本というとコンパクトなものが多かったが、その中にあっては飛びぬけてサイズは大きかった。 また、その中の絵だが・・・子供向けの絵本はファンタジー調の淡い色調が多い中で、この作品はベッタリとした濃い色調で力強く描かれていた。 文章も子供向けというより、大人を読者にしているかなぁと思える内容であった。 そのような話題性もあって、熱烈なファンが生まれ当時の絵本としてはかなり売れていたようだ。 そうであったのだが、オフ個人としてはあまり好きな作ではなかった。 それには理由があって、今手元に作品がないので何処と指摘することは出来ないが、話の中に論理矛盾するところがあって、何だこれは!と気になってしまい素直に楽しんで読めなかった。 普通はそんなところがあっても、フィクションだからと無視して読み進んでしまうのだが、時々そのことがどうしても引っ掛かってしまって楽しめないことがある。

 さてシズコさんというのは佐野洋子の母親のことで、娘が母親のことを書いたノンフィクションである。 ところがこれがまた何ともいえない混乱なのである。 よくおばさん話というのがあって、どうなの?こんど出来た角の中華屋は?そう餃子が小さくて数が少ないの・・・ところで金曜日の**に出ているあのタレント少し生意気じゃない・・・ねぇねぇここだけの話だけど、あそこの奥さん怪しいらしいのよ・・・そうなのよ、また少し太っちゃって明日からダイエットだわ・・・と取り止めもなく話があちらこちらに飛ぶのだが、話す方も聞くほうも当たり前のように自然に受け流している。 「シズコさん」はそのような調子で文章で綴られている。 ある程度読み進むとその辺の事情が分かってくるが、冒頭からそんな調子で始まるから、最初は何がなにやら訳が分からない。  まあ、佐野洋子という人の頭の中は、整理されないままガチャガチャといろんなものが積み込まれていて、アレは確かあそこにあったわ、とそのつど彼女流に引き出してくるとでも言えばよいのか・・・だから話は過去に飛んだり、同じ話が何度も何度も繰り返されたりする。 しかし整理されていない魅力というか、される前の生の感じがモロ出ていて、下手に整理して書かれたモノより面白く、人間という矛盾に満ちた実像により迫っているなぁと思った。

井上ひさし

 30度を越える日々が続いているが、なぜだか蝉の鳴き声がしない。 梅雨明けの日の印象は、朝からからりと晴れた青空が広がり、うるさいほどの蝉の鳴き声があたりに響き渡っている・・・というものだったはずだが、その主役の蝉が鳴いていない。 
 体調の方はよくもなく悪くもなくの状態。
 三連休を利用して首都圏から上の息子夫婦が子供二人を連れてお見舞いに来てくれた。 子供二人はオフにとっては孫に当たるが、よく豆台風とたとえられたりする孫だが、まさにその通りだった。 もうすぐ5歳と3歳になる男の子二人なので、泣くわ笑うはしながら二人して部屋中を走り回っていた。 いつも孫が来たりすると張り切りすぎるので今回は何もしないこと、と嫁さんからの強い言い渡しもあって、食事の用意などには手を出さず、出来るだけベットで寝ているようにしていた。 二日目息子たちは近くにある須磨水族園に出かけた行ったのだが、夏の連休ということもあって園内は満員電車並みの混雑だったらしい。 それにお目当てのイルカショーもあまりにも大勢の人が並んでいたので見るのをあきらめて帰ってきたという。 その息子夫婦がこの前二人で来たのはたしか昨年の後半だったが、あの頃夫婦間の問題で二人の仲は最悪だった。 あれから半年あまりの時間の経過した。 ようやく二人の仲は落ち着いてきたようで、息子の嫁の表情も少し柔らかさを取り戻していて、今回に限り許すわ、と笑って言っていた。 

  井上ユリ「(井上)ひさしさんが遺したことば」より抜書き
 病名の告知を受けたのは、10月29日(2009)の夕方です。4種類ある肺ガンのうち、日本人に一番多い「腺がん」で、進行状態はステージ3Bか4。先生が丁寧に図を書いて説明してくださり、「これほど肺に水が溜まるということは、相当進んでいると思います」と言われました。先生の勧めで、茅ヶ崎徳洲会総合病院に決めました。 翌日、2人で茅ヶ崎徳洲会総合病院に向かい、主治医になって下さる大江元樹先生にお目にかかりました。不思議なことに、大江先生の柔らかな口調で治療方針などを伺っているうちに、「頑張れるな」と前向きな気持ちが湧き出してくるのです。ひさしさんも同じだったようで、昨夜は「もう、いいよ」と言っていたのに、この日は「よし、頑張ってみようか」と言ってくれました。 ひさしさんは「自分は自然科学の素養もないし、医学の基礎知識もない。いくら勉強したって日々専門の病気と関わっている医者に追いつくはずもないから、病気については一切勉強しない」と決めていました。昔からひさしさんは、信頼した人に自分をまるごと「預ける」ことができる人。大江先生に出会って信頼できると感じ、その治療方針にただひたすら従うことにしました。
 12月2日から入院し、抗がん剤治療の準備をするためにMRI胃カメラ、CTなどさまざまな検査が始まりました。抗がん剤を投与する前に、肺に溜まった水をすっかり抜いて、さらに、水が溜まりにくくするため、胸膜と肺を癒着させなければなりません。これはかなりつらかったようです。 内視鏡検査によって、咽喉の痛みは肺と食道の間にあるリンパ節のがんが、大きくなって食道を圧迫していることが原因とわかりました。ステントという、器官を広げる金属の筒のようなものを入れれば改善されるのですが、食道がある程度細くなってからでないと、ステントがうまくはまらずに胃に落ちてしまいます。食道が狭まるのを待つこの時期は、とても辛い時期でした。1日3回、1時間かけて食事を取り、時折食道で食べ物がつまると、指で喉を押して通していく。そんな状態でおいしいはずがないのに、ひさしさんは完食しようと一生懸命でした。 最後は流動食に近い食事にしてもらったのにそれすらも詰まり、水を飲むのもつらくなるほど食道は細くなってしまいました。4月2日にようやくステントを挿入しましたが、先生が思っていたほどは食道が広がりませんでした。多少広がればそこから食事を取って栄養をつけ、次の治療に臨めるという考えは現実のものにはならなかったのです。唾や水は少しは飲み込めるようになったものの、追加のステントを入れる体力はもう残っていません。ひさしさんは口の中にたまった唾を、ティッシュを山ほど使って自分で取っていました。 このころになると、1日単位から半日単位で病状はみるみる悪化していきました。元気な時は65キロあった体重は、50キロ近くまで落ちていました。この時期に撮影された内視鏡の画像と2週間前の画像を比べると、リンパ節のがんが急激に成長して食道をほぼ塞いでいます。前の写真の「肺がんの食道浸潤」という診断は、「多臓器がんの食道浸潤」に変わりました。この写真と診断を目にしたひさしさんは、「ああ、ここまで来たらだめだなあ」とつぶやきました。 背中の痛みを軽減するために痛み止めの量を増やしていたので、日中は朦朧としている時間も増えていました。4日に娘の麻矢さんが来た時は奇跡的に数時間元気で、こまつ座についてきちっと2人で話すことができました。6日の深夜に何か書きたい仕草を見せたので便箋とペンを渡しましたが、ほとんど判読できません。薬の副作用で妄想も少し入っているのか・・・・「はっきり」とか「まいります」という言葉は読みとれるのですが、一体何を書こうとしていたのでしょうか。 1日でも早く家に帰らせてあげたいと、先生方の協力を得てなんとか態勢を整えて家に戻ったのが4月9日の朝でした。「帰るよ」と話しかけると、朦朧としながら「うん・・・・」と答えたり、手を弱く握り返してくれました。帰りの車の中でも「今、江の島よ」 「太宰治の(住んでいた)小動よ」 「もうすぐ家よ」の音場にうなずいたり目を動かしたりしていたので、わかっていたとは思いますが、もう少し意識がはっきりした状態で帰宅させてあげたかった。それでも病院の天井を見ながら最後を迎えるのは寂しいこと。家に帰ってこられてよかったと思います。息子と麻矢さん、そして私の3人に見送られ、その日の夜にゆっくり息を引き取りました。 井上ひさし氏は2009年10月に肺がんと診断され、治療中の2010年4月9日に死去(75歳)
 この手記によると、井上氏は約4ヶ月間あまりの病院での闘病を経て亡くなったことになる。 最後の一日は自宅へ帰りそこで亡くなっているのだが、これはほとんど付け足しみたいなもので、ほぼ病院で亡くなったと変わりない。 入院して医師も本人も最後のステントを入れる治療にすべてを託したようだが、この治療のために並々ならぬ苦しい思いをしている。 井上ひさしは常々「家で死にたい」 「延命治療はいやだ」と言っていたというが、今の日本人の大半はそう思っているだろう。 そうでありながらそのように死を迎えるることの出来る人は少ない。 井上氏のように何も考えることなく信頼する医師にすべてを託すというのも一つの選択であるが、失敗した結果論を見て言うのではないが、入院時のこの治療の成功する確率はどれくらいのものだったのだろうか。 もちろん治療には成功もあり失敗もある、それが治療というものであるといえばそれまでであるが、やはり自分の命のことである。 その偶有性を選択するのは、医師ではなくて自分である。 そろそろそんな時期に差し掛かっているのかなぁ・・・と思う。   

渥美清

 昨日病院を受診した。 採血の結果感染を示すCRP値が4・6→8・2とかなり上がっていた。 これには感染だけでなく病変の進行が続いていることを示している。 ここ一週間ほどは体調はとくに不都合なところはなく、熱もなく食欲もほどほどにあり平穏なほうだと思っていたが・・・データー違っていた。 それに血色素つまりヘモグロビン値が8・7→7・7と下がってきていて、医師はこれ以上下がると貧血が出てくる恐れがあって、成分輸血が必要になりますねと言う。  病変の進行を示すMタンパク値の指標であるIGG値は来週電話で聞くことになるが、値が下がっていなかったりしたらサリドマイドがさほど効いていないことが考えられる。 採尿の結果の尿中のタンパクは70とやや高いまま推移しているし、腎臓の劣化を示すクレアチ二ンや尿素窒素の値もやや高い。 前々回の受診の時に、レナミドマイドが認可されると聞いているが認可され次第それを使いたい、と申し込んでおいた。 医師はどうやら今月末から使えそうなので使います、と返事である。 思っていたより早まってよかったなぁなんだが、次回の受診日7月30日からサリドマイドが新薬のレナミドマイドに変わることになる。 ところが受診を終えて帰ってベッドで血圧を計っていた時、看護婦暦が長い嫁さんが手首の脈をとっていて、不整脈が一分間に10〜15回起きているわ、と言った。 その時自覚的には特には何もなかったのだが脈拍も100弱でかなり早いと言う。 医師に電話で連絡して明日土曜日も不整脈が続くようだと受診となると返事を貰ったが、幸い今朝は不整脈は一分間に2〜2回程度に減っていた。 これらの症状も抗がん剤サリドマイドの副作用と見られる。 いずれにしろあと2週間でサリドマイドとも縁が切れるが、計算してみるとこの薬は12週間続いたことになる。 次の新薬レナミドマイドは最後の薬で、これを使ってしまうと後はめぼしい抗がん剤はなくなってしまうことになる。 その後は緩和医療に切り替えることになるが、病変の進行とともに出て来るだろう骨の痛みに対しては、麻薬などを積極的に使用してあまり不快な思いをしないで過ごしたい。 嫁さんもそこのところは覚悟しているのだろうと思うが、そうなれば早い遅いではなくて出来るだけ静かな終末を迎えたい。
 渥美清について抜書き。
 「寅さん」の演技で見せる闊達さとは対照的に、実像は自身が公私混同を非常に嫌がり、他者との交わりを避ける孤独な人物だった。「男はつらいよ」のロケ先で撮影に協力した地元有志が開く宴席に一度も顔を出したことがない話は良く知られており、身辺にファンが近寄ることも嫌っていた。タクシーで送られる際も「この辺りで」と言い、自宅から離れた場所で降りるのを常としていた。映画関係者ともプライベートで交際することはほとんどなく「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次黒柳徹子、親友であった関敬六でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。これは渥美が生前、私生活を徹底的に秘匿し、「渥美清=“寅さん”」のイメージを壊さないためであった。実生活では質素な生活を送っていたようで、車は一台も所有しておらず、仕事での食事も店を選ばずに適当な蕎麦屋で済ましていたという。 26歳で肺結核で右肺を摘出しサナトリウムで約2年間の療養生活を送る。このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われている。また、復帰後すぐに今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に1年近く入院する。再復帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めていた。 病気については1991年に肝臓がんが見つかり、1994年には肺に転移しているのがわかった。47作からは主治医からも出演は不可能だと言われていたが何とか出演。1996年7月に体調を崩して同月末に手術を受けたものの、がんの転移が広がり手遅れの状態だった。山田監督の弔辞によれば、病院でがんの手術が手遅れの状態だった後、病室で震えていたとの事である。 1996年(平成8年)8月4日、転移性肺がんのため順天堂医院にて死去。 康雄(渥美清の実名)はそーっと消える。彼はそれが理想だと言っていたと言う。いつの間にかいなくなって町で誰かが噂している。渥美清っていたなあ、どうしたんだって言うと、あれ、一昨年、死んだよ、ああそうかいという消え方が理想なんだけれども、なかなかそうはいかないよ。 
 震えていたと言うが、やはり彼も死ぬことが怖かったのだろうか・・・先日テレビで詩人の谷川俊太郎がインタビューを受けていた時に、今のところ私は自分が死ぬことはあまり怖いと思わないんですが、むしろまわりの親しい友人や知人が亡くなることのほうが怖いですね、と語っていた。 この言葉にはうなずけた。 渥美清の言った言葉の中に以下のようなのがあった。
 『作り手が自信を持ったときは、彼がどんなに謙虚であろうと努力しても、傍から見ればどこか傲慢に見えたりするもんなんですよ』

吉田修一著「悪人」

 この間何冊かの本を読んだ。 その中の一冊が吉田修一著の「悪人」。 吉田修一はデビューして芥川賞をもらった頃の作品を何冊か読んでいる。 主として都会で暮らす現代の若者たちの今の姿を描いている。 その中の「ランドマーク」という作品につては前のブログで書評を書いたことがあって、それが残っているので、その一部を引用しながら今日は書く。
 ≪さいたまの大宮駅周辺の再開発の大きなビル建設に関わっている二人の男がいる。一人はそのビル建設のの下請け会社の作業員でキューシュウと呼ばれる地方出身の鉄筋工。 吉田修一の作品にはこのようないわばブルーカラーの男達が出て来る。 朝8時から現場に入り、夕方5時まで汗を流してみっちり働いた後は、パチンコをするか、酒やビールを飲んで寝る。 休みの日は競馬や競艇に出かけて金を賭けオケラになるか、予想を当てれば風俗店やキャバクラでワァ〜ッと騒いで、月曜日の朝8時からまた現場に入る、一生文学などと縁のないそんな男達。  もう一人は犬養と呼ばれる工学部建築学科の大学院を卒業した新鋭のビルの設計者。 二人は同じビル建設に関わっていて、この二人の周辺の日常がつづられて話は進んで行くが、この二人は最初から最後まで当作品の中では交わらなくて他人のままで終わる。
 作品の中にこんな会話が挟まれていた。
 ーなぁ、なんでそんなことをしたいんだよ?
 ー理由はないの。ただ、そのほうが楽なの
 ー楽って?
 −・・・・・・
 ーなぁ、なにが楽なんだよ 
 ーこんなこと言うと、いい子ぶってるみたいで嫌なんだけど・・・、私さ、ときどき会ったこともない犬飼さんの奥さんのことを考えることがあるのよ
 ー・・・・・・
 ー・・・でね、すなおに悪いなって思うの。もちろん、一番悪いのは犬養さんよ。でも、私もかなり悪いと思うのよ
 ーお前、そんなことを考えてんだ
 ーそりゃ、考えるよ。同じ女なんだし・・・。でね、もっとこう、なんていうか、犬養さんとのことは、本気の遊びみたいにしたいのよ
 ー遊び?
 ーそう、ほんきの遊び。・・・そうじゃないと、なんていうか、私、ちょっと苦しいんだよね
 そう言いながら、その後女が提案した<本気の遊び>とは、シティホテルの部屋で、コールガール&コールボーイを呼んで、隣のベッドで彼らを相手にお互いにセックスしあう、ということであった。 そんなことが<本気の遊び>になるのかよく解からないところだが・・・もっとも<本気の遊び>というものがどういうものかもよく解からないが・・・自分達のやっていることが、決して楽しいだけのことじゃなくて、きわどく、危ないキリキリするような綱渡りのようなもの、どこかで嘘をついているような恥ずべき行為であることを心に刻み付けたいということだろうか・・・して、そのような行為を経て・・・二人の関係はその後どう変化していくのか・・・≫
 この中の会話の部分は、犬養と浮気の相手の女ろがベッドの中で交わした会話の一部である。 つまり浮気している相手の女がある時、わたし本気の遊びがしたいの、と言い出したのだ。 今のように、逢って食事をしてお酒を飲んだり、ベッドをを共にするだけの関係・・・楽しむだけの関係を続けていると、何だか苦しくなるの、と言い出した訳だ。 生きているという実感のないまま良い所取りだけして漠然と生きていることの不安、つまり現代社会での生きていることの不安、そのあたりを表現しようとしている。 その他日常的なディテールなども手垢のついた表現などではなく書かれていて、これは新しい書き手が現れたなぁとも思えた。 しかし、エリート層の男女に対置するように描かれているブルーカラーの若者の側に生の実感があるかというと・・・同じようにないのである。 このように階層によって仕分けられた男女を対置してみたところで、階層の典型というべき像などすでに失われて久しいのだし、ただ社会の中に個化した個々人がいるだけで、対置することで生の不安に対しての展望や希望などを導き出すのは到底無理な話である。 結局作品は何の結論もなく投げ出されたように終了してしまう。 初期の頃の吉田の作品もほとんど「ランドマーク」と同様な投げ出すような終わり方をしている作品が多い。 その後の古民家に関わったこともあって吉田の作品は読んでいなかった。 「悪人」は比較的最近の作品で、かなり評価された作品らしいので期待して読んだ。 結論から先に言えば少しも面白くなかった。  「悪人」ようなストーリィの展開を追って読んでいく作品はたしかに読みやすいのだが、残念ながらぜんぜん面白く思えない。 それがミステリィとして組まれていて、謎が謎を生みドキドキハラハラするような展開をするものであっても、オフには少しも面白く思えない。 そのような作品はこれまでの作品にはなかった意外性が追求されることはあっても、所詮既存知の延長かつなぎ合わせであって、心を震撼させるような人間の不可思議さが滲むような面白みがないのである。
 読み終わった時に思った。 そうか、吉田修一がそちらの方向へ舵を切ったのか・・・考えてみると前のまま書き続けるのは無理だろうし、舵を切ったのが妥当だったのだろうなぁ、と同情的なものであった。 まあ、オフが面白くないだけでべつにエンターティメント系の作品が悪いわけではないし、作者がそちらの方へ向かうのもそれはそれでよい。 むしろその方が作品も数が売れるだろうし収入も悪くないと思う。

虐め

 体調は先週末ぐらいからかなりよくなってきた。 副作用の不快な乗り物酔いのような気分の悪さや頭痛がようやく無くなった。 先週末はサリドマイドを200ミリから100ミリに減らしてからちょうど3週間にあたる。 問題はこの100ミリで病状が進行しないことであるが、今週金曜日に受診があり、その時の採血の結果次第である。 IGG値が増えていなければよいのだが・・・
 レナミドマイドといわれる新薬が近々認可されるようである。 この薬はサリドマイドの前躯体で、サリドマイドに比べ副作用が少ないといわれている。 現在前の抗がん剤であるベルケイドの副作用の足の痺れは、止めてから数ヶ月経過しているが相変わらず続いている。 サリドマイドも時間の経過とともにた足の痺れが出てくるらしいが、その副作用が少ないだけでもこちらの薬に換えたい。 というのもサリドマイド治療が継続できなくなるのは、薬が効かなくなるより副作用が強く出てきて続けられなくなるというのがほとんどらしいからである。
 前回は虐めについて書いたが、オフの場合虐めはどうだったのか? 学生時代を通して虐めを受けることも少なかったし、虐めることも少なかったと思う。 その理由を考えても、これだと言う理由はとくに思い浮かばない。 虐めを受けにくいタイプだったとも思える。  ただ高校一年 生の時の時のことであるが、見知らぬ上級生に廊下に呼 び出されて、放課後迎えが来るから教室で待っていろと言われた。 何のことかさっぱり分からなかったが、側にいた同級生がリンチされるかもしれないというようなことを言った。  その友人が言うには、お前は少し目立ちすぎているんだ、と言う。 どこが?と聞くと、何処という事ないが、服装とか態度とか何となく目立っていているんだ、と言う。 それを聞いた時はまさか・・・と笑っていたが、時間が経つにつれて少しずつ怖くなって来た。 その後の授業は落ち着かなくまったく上の空の状態だったと思う。 放課後上級生の迎えが二人来て彼らの後を付いていった。 ところがそのとあたりから突然覚悟が出来たというか、それまで怖くてビビッていたのが、嘘のように落ち着いてきた。 まあ、何発か殴られるにしても、ただそれだけのことじゃないか、と思えたからだ。 音楽室があった校舎の裏手に連れて行かれ、そこには何人かの上級生が待っていて、まわりを囲まれた。 誰かが、お前が普通科の**か、と聞いてきた。 返事せず首を振った。 お前は普通科の一年生のくせに粋がっているそうだなぁ、と言う。 それには黙っていた。 その後少しなんだかんだと言われたようだったが心の中では、殴るんだったら早く殴って済ませてくれ、ぐらいに思っていた。 最後に多分親玉のような大きな男が、お前が突っ張っているから先生達も困っていると聞いている、あまり先生たちを困らせないでおとなしく勉強していろ、と妙な説教をたれて終わりになった。 まったく笑えるような話であるが、それでおしまいで殴られることもなく一人帰って来た。 何とも牧歌的な時代だったのだ。 後で聞いたが親玉のようなかっこつけた男は当校の番長だということだった。 それから何日経ってからその番長からまた呼び出しがあった。 行くと番長は取り巻き達何人かと芝生の上で坐っていて、オフを見て、最近はどうだおとなしくしているか、と言った。 そうしている、と答えると、それでよい、もう知らない仲でないのだし、もし誰かに因縁でもつけらるようなことがあれば俺のところへ言って来いよ、ということであった。 その後しばらくその場に坐って彼らの言っていることを聞いていたが、高校生にしては幼稚なことをしゃべっていたと思った記憶がある。 ただそれだけのことだった。 これは後で思ったことだが、番長が学校にいた頃は彼の睨みがあったのか、他学科の上級生などとの間にはほとんど問題はなかった。 彼が卒業していった後、他学科の者から睨まれたり、何かと言われたりすることが多くなった。 理由は当時学校では丸刈りとされていた髪の毛を伸ばしはじめたということがあったからだった。 それでも何かされるということはなかった。  
 今にして思えば人間も純朴でその関係は牧歌的でおおらかな時代だったと思う。 もうあのような時代には戻りたくても二度と戻ることはないだろう。 これからはグローバル化が進みビジネスの場では英語を話すことが必携だろうし、自分の独自の考えや意見を持つのが当然のことだろうし、まわりの人の顔色を見ながら意見を言っているようでは馬鹿にされるだけだろう。 これまでの日本的な美徳が美徳でなくなってしまう。 しかし虐めはなくならない。 そうなればそうなったで、虐めは形を変えて行われるだろうが、どのような形となるのだろうか・・・