井上ひさし

 30度を越える日々が続いているが、なぜだか蝉の鳴き声がしない。 梅雨明けの日の印象は、朝からからりと晴れた青空が広がり、うるさいほどの蝉の鳴き声があたりに響き渡っている・・・というものだったはずだが、その主役の蝉が鳴いていない。 
 体調の方はよくもなく悪くもなくの状態。
 三連休を利用して首都圏から上の息子夫婦が子供二人を連れてお見舞いに来てくれた。 子供二人はオフにとっては孫に当たるが、よく豆台風とたとえられたりする孫だが、まさにその通りだった。 もうすぐ5歳と3歳になる男の子二人なので、泣くわ笑うはしながら二人して部屋中を走り回っていた。 いつも孫が来たりすると張り切りすぎるので今回は何もしないこと、と嫁さんからの強い言い渡しもあって、食事の用意などには手を出さず、出来るだけベットで寝ているようにしていた。 二日目息子たちは近くにある須磨水族園に出かけた行ったのだが、夏の連休ということもあって園内は満員電車並みの混雑だったらしい。 それにお目当てのイルカショーもあまりにも大勢の人が並んでいたので見るのをあきらめて帰ってきたという。 その息子夫婦がこの前二人で来たのはたしか昨年の後半だったが、あの頃夫婦間の問題で二人の仲は最悪だった。 あれから半年あまりの時間の経過した。 ようやく二人の仲は落ち着いてきたようで、息子の嫁の表情も少し柔らかさを取り戻していて、今回に限り許すわ、と笑って言っていた。 

  井上ユリ「(井上)ひさしさんが遺したことば」より抜書き
 病名の告知を受けたのは、10月29日(2009)の夕方です。4種類ある肺ガンのうち、日本人に一番多い「腺がん」で、進行状態はステージ3Bか4。先生が丁寧に図を書いて説明してくださり、「これほど肺に水が溜まるということは、相当進んでいると思います」と言われました。先生の勧めで、茅ヶ崎徳洲会総合病院に決めました。 翌日、2人で茅ヶ崎徳洲会総合病院に向かい、主治医になって下さる大江元樹先生にお目にかかりました。不思議なことに、大江先生の柔らかな口調で治療方針などを伺っているうちに、「頑張れるな」と前向きな気持ちが湧き出してくるのです。ひさしさんも同じだったようで、昨夜は「もう、いいよ」と言っていたのに、この日は「よし、頑張ってみようか」と言ってくれました。 ひさしさんは「自分は自然科学の素養もないし、医学の基礎知識もない。いくら勉強したって日々専門の病気と関わっている医者に追いつくはずもないから、病気については一切勉強しない」と決めていました。昔からひさしさんは、信頼した人に自分をまるごと「預ける」ことができる人。大江先生に出会って信頼できると感じ、その治療方針にただひたすら従うことにしました。
 12月2日から入院し、抗がん剤治療の準備をするためにMRI胃カメラ、CTなどさまざまな検査が始まりました。抗がん剤を投与する前に、肺に溜まった水をすっかり抜いて、さらに、水が溜まりにくくするため、胸膜と肺を癒着させなければなりません。これはかなりつらかったようです。 内視鏡検査によって、咽喉の痛みは肺と食道の間にあるリンパ節のがんが、大きくなって食道を圧迫していることが原因とわかりました。ステントという、器官を広げる金属の筒のようなものを入れれば改善されるのですが、食道がある程度細くなってからでないと、ステントがうまくはまらずに胃に落ちてしまいます。食道が狭まるのを待つこの時期は、とても辛い時期でした。1日3回、1時間かけて食事を取り、時折食道で食べ物がつまると、指で喉を押して通していく。そんな状態でおいしいはずがないのに、ひさしさんは完食しようと一生懸命でした。 最後は流動食に近い食事にしてもらったのにそれすらも詰まり、水を飲むのもつらくなるほど食道は細くなってしまいました。4月2日にようやくステントを挿入しましたが、先生が思っていたほどは食道が広がりませんでした。多少広がればそこから食事を取って栄養をつけ、次の治療に臨めるという考えは現実のものにはならなかったのです。唾や水は少しは飲み込めるようになったものの、追加のステントを入れる体力はもう残っていません。ひさしさんは口の中にたまった唾を、ティッシュを山ほど使って自分で取っていました。 このころになると、1日単位から半日単位で病状はみるみる悪化していきました。元気な時は65キロあった体重は、50キロ近くまで落ちていました。この時期に撮影された内視鏡の画像と2週間前の画像を比べると、リンパ節のがんが急激に成長して食道をほぼ塞いでいます。前の写真の「肺がんの食道浸潤」という診断は、「多臓器がんの食道浸潤」に変わりました。この写真と診断を目にしたひさしさんは、「ああ、ここまで来たらだめだなあ」とつぶやきました。 背中の痛みを軽減するために痛み止めの量を増やしていたので、日中は朦朧としている時間も増えていました。4日に娘の麻矢さんが来た時は奇跡的に数時間元気で、こまつ座についてきちっと2人で話すことができました。6日の深夜に何か書きたい仕草を見せたので便箋とペンを渡しましたが、ほとんど判読できません。薬の副作用で妄想も少し入っているのか・・・・「はっきり」とか「まいります」という言葉は読みとれるのですが、一体何を書こうとしていたのでしょうか。 1日でも早く家に帰らせてあげたいと、先生方の協力を得てなんとか態勢を整えて家に戻ったのが4月9日の朝でした。「帰るよ」と話しかけると、朦朧としながら「うん・・・・」と答えたり、手を弱く握り返してくれました。帰りの車の中でも「今、江の島よ」 「太宰治の(住んでいた)小動よ」 「もうすぐ家よ」の音場にうなずいたり目を動かしたりしていたので、わかっていたとは思いますが、もう少し意識がはっきりした状態で帰宅させてあげたかった。それでも病院の天井を見ながら最後を迎えるのは寂しいこと。家に帰ってこられてよかったと思います。息子と麻矢さん、そして私の3人に見送られ、その日の夜にゆっくり息を引き取りました。 井上ひさし氏は2009年10月に肺がんと診断され、治療中の2010年4月9日に死去(75歳)
 この手記によると、井上氏は約4ヶ月間あまりの病院での闘病を経て亡くなったことになる。 最後の一日は自宅へ帰りそこで亡くなっているのだが、これはほとんど付け足しみたいなもので、ほぼ病院で亡くなったと変わりない。 入院して医師も本人も最後のステントを入れる治療にすべてを託したようだが、この治療のために並々ならぬ苦しい思いをしている。 井上ひさしは常々「家で死にたい」 「延命治療はいやだ」と言っていたというが、今の日本人の大半はそう思っているだろう。 そうでありながらそのように死を迎えるることの出来る人は少ない。 井上氏のように何も考えることなく信頼する医師にすべてを託すというのも一つの選択であるが、失敗した結果論を見て言うのではないが、入院時のこの治療の成功する確率はどれくらいのものだったのだろうか。 もちろん治療には成功もあり失敗もある、それが治療というものであるといえばそれまでであるが、やはり自分の命のことである。 その偶有性を選択するのは、医師ではなくて自分である。 そろそろそんな時期に差し掛かっているのかなぁ・・・と思う。