宝塚の事件について

 宝塚市で15歳の長女が家に放火して、家族3人を死傷させるという事件が起きた。 今日書くことは今度の宝塚の事件とは直接関係がなく、あくまで一般論として書いている。 この長女は義父らからしつけの名目で執拗なDVを受けていたという。
 一昔前は家庭内での親子関係のいじめなどは、継母が継子を影に日向にいじめるというのが定番であった。 継母とか継子と言っても今の若い人は何のことか分からないらしい。 母親の違う親子、実の子供でない母親と子供のことである。 昔は、と言っても戦前までの日本では家族制度が維持されていて、結婚は男女の結びつきというよりも、嫁取りといわれたように結婚とは女が男の家族に入りその一員になることであった。 そうであるから離婚ということになれば女が家を出るのが普通で、子供は家に属するもので嫁は子供を置いて単身で家を出ていくことが当たり前とされていた。 そこへ後妻が入った場合、先妻の子を虐めるのが継子、継母問題である。 今は離婚の場合子供は両親のどちらかが引き取る。 一般的には女つまり母親が引き取るのが主流である。 そうした離婚した女性が再婚する場合、当然子供を連れて再婚することになる。 そのような家庭でいろいろな問題が出てきている。 親による子へのドメスティック・バイオレンスいわゆるDVである。一般的には母親の相手の男から連れ子へのDVが多いが、母親の自分の子供に対するDVもある。 生活に余裕があるならばそうでもないのだろうが、一般的に男は自分の種でない他人の子を育てることに合理性を見出さないものである。 女もそのことが分かるから、ついつい男に対して甘くなりDVに対してつい遠慮気味になってしまう。 また中には男の関心をかうために一緒になって実子を邪魔者扱いして虐めたり、実子でありながら男との間の邪魔者として自分の子供を虐める女もいる。 子供はますます相手の男になじまず心を閉ざしてしまうことになり、それを可愛くない!とさらに虐めはエスカレートする。 子供が自己主張が出てくる思春期の場合、気の強い子なら相手に対して意識してふてぶてしく反抗的になる。 さらに子供が女の子で年頃の場合、これにファザーファッカーの問題が絡んでくる。 この問題は陰湿な問題だから明るみに出て来ることは少ないが、実際には考えられている以上に多いと言われている。 母親も知っていながら男との間に事を荒立てたくないために、見て見ぬふりをしている場合も多々あるという。 また、実際にそのような行為がなくても、それをしたくても出来ない男が、親と言う立場を言い訳にして子供に対して躾と称して異常にきびしく当たるという代償行為に出るという場合もある。 さらにこれらの問題がややこしいのは、DVの犠牲者である子供がそれでも外部に対して家族をかばうというか、家族の問題を外部に漏らすことを恥じるというかで自ら隠蔽してしまっていることが多い。
 最近嫁さんのごく身近な人が、私は子供の頃家で母親から叩かれたり蹴飛ばされたりする暴力を受けなかった日が一日としてなかった、とカミングアウトすることがあった。 この人の場合再婚とかでなく実子実母関係なのだが、家庭内では喧嘩が絶えない夫婦関係の家庭だったという。 彼女は今は結婚して家を出ているし、当の母親も亡くなっているのでようやくそのことについて話せるようになったと言う。 今は都会の家庭は核家族が多くて、いったん玄関のドアを閉めてしまえばそこで何が行われているのか、外部のものにはまったくうかがい知ることができない。 そこでは考えられるおおよそすべてのおぞましいことが起きていると考えてよいだろう。
 また今回の事件を起こした少女はブラジル国籍の子で、学校などで虐めにあっていたといわれている。
 一般的に外国で育った子女などは物事に対してまわりを気にすることなく自分の意見を述べることが多い。 その子独自の意見であることが多く、時にはとんでもなくおかしな意見だったりする場合がある。 基本的に民主主義というのはそのようないろいろな意見を元に人々が議論して、最終的にそれを集約して多数決で結論を出すという政治手法である。 個々人がいろんな意見を持ち、それを主張するということは民主主義を支えている基本中の基本である。 ところが日本では個々人の独自の意見というものをあまり歓迎されない。 議論する前からなんとなく<和を持って尊し>なのである。 今ではKYだとか言われて、おおよそまわりと軋轢を起こさないような無難な大勢の流れに逆らわないことを良しとされている。 そんな中で自分独自の考えを述べたりすると、一人浮き上がってしまい、あいつ何だ!とまわりからの反発を食うことになる。 あいつ何だ、はその内に虐めに発展する。 いわゆる出る杭は打たれるなのである。 またこの場合虐める側も自分は大勢の言い分に逆らっていない、むしろ代弁していると思っているから、虐めていながらさほど罪の意識も持っていない。 また虐めに加わらないにしろその周辺で見ている連中も、出る杭が悪いんだからと、あえてそれに止めに入いらない自分にやましさを感じることも少ない。 和を持って尊しとするは寛容にも通じるすばらしい理念であると思う。 たしかに表面的ないろいろな軋轢や争いは少なくて済むが、どこか根に陰湿なものを押し込んで弱いものいじめに発展する文化に繋がるおそれがある。
 またまた先ほどの女の人の例だが、彼女は家がさほど豊かでもないのに、母親の見栄からいわゆる中高一貫のお嬢さん学校に入ったのだが、家のことを思い何かと節約している彼女を見て「ここはあんたなんか来るようなところじゃないのよ」、と級友たちから6年間執拗な虐めを受け続けたという。 異質なものを排除しようとするのは何処にでもあるだろうが、高じると偏狭な原理主義ナショナリズムに繋がっていく。