窃盗事件の行方

 前回書いた話にもう少し追加する。
 ところで盗まれた嫁さんのタイヤとホイールは免責分の5万円払って新しくなったが、盗まれたタイヤとホイールがもしネットでさばかれていなくて残っていれば、いずれ立証が終わればそれらは元の持ち主嫁さんのところに帰ってくる可能性はある。 いまさらそんなものを貰ってみても邪魔になるだけだが、ネットで転売すれば5万円以上で売れるのは間違いなさそうである。 何せ純正部品のタイヤホイールは現在プレミアムがついていて、定価より高くても欲しいという人が多いらしいのだ。 今度の件ではタイヤやホイール会社、ディーラーなども損はないどころか売り上げ増で儲かっている。 盗まれたホイールなどをネットで買った人たちも、それが欲しくでプレミアムをつけても金を出して買っているのでこちらも不満があるはずがない。 また犯人の口座にはそれらを売った金だろう1200万円の残高があったと報道されている。 前回はこの件の主たる被害者は保険会社かもしれないなどと書いたが、もう少し突っ込んで考えてみると、保険会社もこのような事件が起きることで丸々損ばかりしているとは限らないようだ。 と言うのはあちらこちらでこのような事件が起きると、人々の間に不安感が広がり、万一に備えて保険にでも加入しておこうか、などと考える人たちが出てくるだろうと思われるからだ。 結局誰が損をして誰が得をするのか分からないようなウジャウジャな構造である。 この窃盗事件は歌舞伎の<三人吉三郭初買>の話にどこか通じている。 夜鷹の金を奪い川に落として
 「月も朧に白魚の 篝(かがり)も霞む春の空、つめてえ風もほろ酔いに 心持よくうかうかと、浮かれ烏のたゞ一羽 塒(ねぐら)へ帰る川端で、棹の雫か濡手で泡、思いがけなく手にいる百両・・・ほんに今夜は節分か 西の海より川の中 落ちた夜鷹は厄落とし 豆だくさんに一文の 銭と違って金包み こいつぁ春から 縁起がいいわぇ〜」とうそぶいて浮かれるお嬢吉三。 それを目撃し金をよこせと横車を入れるお坊吉三。 中に割ってはいる和尚吉三の無頼の悪人三人。 ご存知、河竹黙阿弥の白波モノの代表作「三人吉三郭初買」である。 何が今回の件に通じるかと言えば、悪事がウジャウジャになってしまうところがである。 また共同取り組みや提携などが持てはやされる<win・win>の関係もどこか通じている。 このウイン・ウインの関係についてカフェ、ヒラカワの店主はそのブログでhttp://www.radiodays.jp/blog/hirakawa/以下のように鋭く分析している。
 ≪二つの企業の利益が相反しているような場合の妥協点をどこに見出すのかといったときに、「ウィン=ウィン」の関係を構築してゆけばいいじゃないかといった具合に使われた。契約の場では、必ず両者が「ウィン=ウィン」であることを確認してサインに及んだ。いや、もっと日常的に誰かが誰かと「組む」ときに、それがよい投資であり、「ウィン=ウィン」の関係であることを耳元で囁くのである。 しかし考えてみれば当時も今も、シリコンバレーというところは、弱肉強食のダーウイニズム最も強固に支配している場所である。市場原理主義とは、勝者と敗者を際立たせることで、市場を活性化させる方策である。勝者と敗者のコントラストは、人間の欲望をより活性化させるからである。一方に勝者がいれば、必ず一方には敗者が生まれる。勝者とは敗者が失った分だけ得たものの謂いである。 「ウィン=ウィン」が詐術であるのは、そこに二人分の「ルーズ」を背負い込ませられる第三者が隠蔽されているという点にある。「ウィン=ウィン」とは、両者が結託して、二人分のコストを「外部」に押し付けることでしか成立しない。 その意味では「ウィン=ウィン」とは、衣の下に鎧を隠した簒奪者の言葉なのである。≫
 これに対してヒラカワ氏は相互互恵のルーズ・ルーズの関係を対置する。
 ≪「ウィン=ウィン」という言葉が、弱肉強食の市場で、誰かにコストを押し付けるという「外部」を隠蔽した詐術であるのに対して、「ルーズ=ルーズ」には、隠蔽されている「外部」がもともと存在せず、お互いがどれだけのコストを負担すれば、将来の利得につながっていくかとうことが明確になっているからである。≫
 ルーズ・ルーズの関係というのは簡単に言えば、この件につきましてはお互いに少しずつ泣くことで収めましょう、といって事を収拾する知恵のことである。 そうなってくるとこれは落語の三方一両損の話しになる。 三両の金が入った財布を拾った左官の金太郎が、それを落とした大工の吉五郎に届けるが、吉五郎はその金は落としたのだからもう自分のものじゃないと言い張る。 二人は江戸っ子らしいやせ我慢の心意気を競い譲らないで争う。 そこでこの話は南町奉行大岡越前のところへ持ち込まれ、越前はその話を聴き懐から一両出し計四両にして、二両づつを二人に渡しこれで三者一両ずつ損をしてめでたく収まることになる。 この話を<よく考えると越前一人が損をした訳で、自分が損をして事を収めるのは邪道で、名裁きとはいえないだろう>という意見もあるみたいである。 しかし、その場だけみるとたしかにそうかもしれないが、この話は大岡越前の裁きや名前を後世に広く残したことを思えば、その場での一両などの損は安いものであったとも言える。
 何だか話は取りとめもないところへ来たしまった。 昨日今日と体調は比較的悪くない。