科学的な誠意?

 下の息子の彼女のお母さんは五十台半ばらしいが、最近乳がんが見つかり手術を受けたということである。 最近オフの回りでもガンが見つかったとか、ガンで手術をしたとかいう話をやたら聞くようになった。 そのような話しがまわりから出るような年齢になったということだけのことか、それともガンに罹患する人自体が増えているのか分からないが、いずれにしろ好ましくない傾向だ。 話は戻るがお母さんは乳がんの手術を受けたのだが、がん細胞の取り残しがあったのか再発したとのことである。 今のところ転移はしていないということだが、いずれにしろ手早い次の治療が必要である。 だが、お母さんは医師の進める抗がん剤の治療を拒んでいるという話だ。 その根拠は何処にあるのか分からないが・・・ただし放射線の治療は受けることに同意したらしい。 この間抗がん剤治療を受けてきたオフも、拒否する気持ちは分からないことはない。 血液系のガンの場合、治療法は抗がん剤治療しかないので、選ぶも選ばないもなくて、抗がん剤治療を拒否することは即治療自体を拒否することに繋がってしまう。 それに血液系の抗がん剤治療は大量の、場合によっては致死量を超える抗がん剤を使うので、その副作用なども半端でない。 受けてみて初めて分かったのだが、こんな辛い思いをするくらいなら死んだほうがましだ、とまで思った時もあった。 そうは言っても一連の治療を受けていなければ、多分オフは今頃はこの世にはいなかったろうと思う。
 それに抗がん剤治療をしますと言われても、たいていの人はオフと同様それを受けてみなければ、それがどんなものか分からないのが普通である。 そうなるとどうしても専門家の言うことを、今の場合は医師の言うことを、信じて同意していくしかない。 その時医師はよくこの治療が効果があるのは**パーセントです、というような言い方をする。 それはたしかに統計的には正確な事実であり、科学的な意味では精一杯誠意のある回答ということになるのかもしれない。 科学的なものの見方では、<同じ条件なら同じ答えが出る>ということが前提になっているからなのだが・・・そのことは取りも直さず現在の医師のものの見方の根底には、そのような科学的な前提を踏まえた視点で患者を見ているということでもある。 ガンの告知を受け 「この治療を受けたとして、1年後にあなたが生きている確率は40パーセントです」、と言われたとしても、当然のことながら患者本人にとっては、1年後に<40%生きていて、60%死んでいる>という状態はあり得ない。 1年後には<生きている>か<死んでいる>かのどちらである。 科学的な事実というのは、治れば40パーセントに入っただけだし、治らなければ60パーセントに入っただけのことなのである。 患者にとって治療を選択するということは、40パーセントの生き延びる選択である同時に、60パーセントの死のリスクの選択ということでもある。 それだけに治療の選択というのは、臨床の現場に経験の少ない患者としては、なかなか選びようがない選択肢であるだけでなく、治療において患者はあくまで受身の立場でしかないということも迷いをさらに大きくしている。 そうではなくて何かを自分なりに選びたい、そうすることで助かりたい、一縷の光を見たいと・・・それがたとえ医師が心の中でせせら笑う民間療法だったとしても・・・統計的な数値に偽りはないとする科学的な治療に対して、人が受け入れたくないという思いを抱くのは、たんに冷たい科学的な事実を拒否したいということだけでなく、たとえばそれでも奇跡を信じたいというような、人が人としてあることの根底にまで届いている根深い問題であるような気がする。