負け戦

 下の息子が婚活で知り合った彼女を連れてお見舞いに来た。 二人は知り合ってからまだ短い付き合いなのだが、長年付き合った仲の良い恋人同士のような雰囲気である。 男と女の関係とはいったん気が合えばそんなものなのだろう。 相手の娘さんも、と言っても息子と同じ年だからすでに30歳なのだが・・・ことさら自分を押し出すような現代的な人ではないが、芯はしっかりしているように見受けられ、息子としてはなかなか良い相手を見つけたなぁと感心している。 年内には籍を入れるつもりだという話しだが、たとえ結婚式をするにしてもオフは出席できないとあらかじめ断りを入れておいた。 個人的にはあえて結婚式は挙げる必要もないと思うが、後々機嫌の悪い時にそのことでチクチク厭味を言われることを思うと何とも言いがたい。 月並みな言葉だが、病める時も健やかなる時も、貧しき時も富める時も、変わることなく相手を愛することを願う。

 オフの育った田舎の町にU建設という地方では中堅の土木や建設など手がける総合建設会社がある。 以下はそのU建設の設立者であり先代のU社長の話しである。 U社長はすでに鬼籍に入った人であるが、その最期は持病の糖尿病を悪化させ足が壊死してしまい、そのため両足を切り落とすという大変な最期であったと聞いている。 彼は太平洋戦争に従軍していて、フィリピンで米軍との戦闘に加わった。 フィリピンでの戦闘はレイテ島の戦闘だったと思うが、確認したわけではないので確実なことではない。 レイテ島では日本陸海軍は壊滅的敗北をきっして、その犠牲者は八万四千人だったと言われている。 戦況が日に日に日本軍に不利になり、反撃する武器も弾薬も食料さえなくなりジャングルの奥へ奥へと後退せざるを得なくなった時点で、小隊長をしていたU社長は上官に向かって以下のように話したと言う。 「この戦闘での我が軍の敗北はもはや誰の目にも明らかである。 いわばこの戦いは<負け戦である>、負け戦と分かっている戦いでむざむざ後退して最後に玉砕するのは意に合わない。 どうせ死ぬなら自分たちが思うように戦いたい、敵に向かって最後に一矢を報いたい・・・だから隊と一緒に後退するのではなくて、自分たちは敵に向かって攻めて行きたい」と語ったという。 すでに組織的に反撃する力もなく、統制力すら無くなりかけていた軍のことを思ってか、上官はそれに対してあえて異を唱えなかったという。 そこでU社長は日本軍の大勢とは逆にアメリカ軍のいる方向に向かって部下の7〜8人を連れて進撃したということである。  「ジャングルの奥へ後退して行った日本軍は、そのほとんどが餓死したり、撃ち殺されたりしてほぼ全員戦死したと訊いている」、とU社長は静かに語っていた。 そして彼等はレイテ島戦の数少ない生き残りである。 アメリカ軍の捕虜となって生き延びたのであるが・・・戦後日本へ帰ってきた後U社長は彼の部下全員の故郷を訪ねて歩き、そこの家族から夫や息子が生きて帰ったことを深く感謝されたということである。
 当時、軍隊では<生きて虜囚の恥かしめを受けず>とことあるごとに言われ、捕虜になるくらいなら自分で自分の命を断て、と徹底的に教え込まれていた。 以下のことはU社長の口から訊いたわけではないし、おそらく訊いてもそんなことを自分の口から言わないだろうと思うが、軍の本隊から離れ敵であるアメリカ軍の方向に向かって進んだ時に、彼の頭の中にあったのは捕虜になってでも生き残ろうと考えていたと思う。 日本軍が連敗し後退を余儀なくされた時点で、軍の大多数が勝利をあきらめ自らの死を覚悟していた時に、U社長は何とかして自分たちは生き延びたいと考え、そのためにはどうすればよいのかといろいろ考え抜いたのだろうと思う。 その結果、上官を説得するのに<負け戦>という古くからある言葉を思いつき、その言葉を持って上官を説得したのだろうと思う。 人にはそれぞれの人生の節目、節目において思い切った決意をせざるを得ないことがままあるものである。 そんな時に人は自分やまわりの人を納得させる言葉を捜すものである。 それがたとえば、<人生は一回きりしかない>、などというような言葉に集約されたりする。 それにしても当時U社長の思い付いた<負け戦>という言葉は、なかなか説得力のある一言だったなぁと今さらながら感心している。 しかし問題は軍隊の<生きて虜囚の辱めを受けず>という共同幻想の中で、本意ではないにしろそのほとんどが自らの死を受け入れている状況の中で、<王様は裸だ>と叫ぶように、自分たちだけでもなんとか<生きたい>と欲したということにある。 人はいろいろな幻想に囚われ、その幻想に自らの死が(生が)その永遠性と繋ながることを夢見るものである。 しかし共同の幻想というのは一見すれば永遠にも続くものに見えるのだが、時代が変わったりしていったんその化けの皮が剥げ落ちると、その実態はたいていはウソ臭く安っぽい幻想でしかないである。 話しは少し飛ぶが、現在の政治の紛争や経済の競争のニュースのほとんどが国家がらみの問題であると言ってもよいが、われわれの中にあるその国家という共同幻想も、決して永遠に繋がっているものではないのである。(ジョン・レノンの唄イマジンにあるように、上空から見下ろせば地球のどこにも国境などはないのである) そのような共同幻想に唯一拮抗できるものがあるとするなら、それは自己の生を肯定する生命としての自己幻想(あるいは吉本隆明の言う対幻想)しかないのである。