「硫黄島からの手紙」

 診察室へ入るなり医師にCRPの値を聞いた。 何と5・8、前回ようやく0・9まで下がっていたというのに・・・がっかりである。 菌への感染もあるだろうが、基本的には骨髄腫の活動が押さえ切れていないということになるだろう。 いったん20ミリから10ミリに減らしたプレドニンステロイド)を15ミリに増やして様子を見ることになった。 ここのところステロイドを使い続けていたので、顔がムーンフェイス気味だが、これでまたいっそう丸くなりそうである。 なおIGG値は2453でジワリと上がってきているが、これは前回の値でサリドマイドを飲む前の数値である。 知りたいのは今日の値で、もし少しでも前回より上がっていたりしたら薬が効いていないということになるが・・・もちろん錠剤なので点滴のように効き目は早くないのだが・・・
 NHKのBS放送でクリント・イーストウッド監督の「父親達の星条旗」と「硫黄島からの手紙」を二日間にわたって見る。 戦争というものを戦っている双方の側から光を当てることで、どちらが悪いとか、どちらが正義だなどいう手前勝手な理屈を吹き飛ばしてしまう非情な戦争の現実、現場の真実を見せつけることで、戦争の実態を浮き彫りにした映画だった。 戦闘のさなか日本人もアメリカ人も捕虜を虐殺するかと思えば、敵兵を治療をし助ける人たちもいる。 戦争の現場では常に一人の人間、個人個人がいるのであり、その個人個人が国家という共同幻想の中に組み込まれ、その中で平時では考えられないことだが、敵と名指された相手を、生きた人間を殺すことが強いられる訳である。 「父たちの星条旗」では戦争の現場では国家の大儀のために戦っている奴など一人もいない、みんなその場にいる、横にいる仲間のために必死で戦っているのだ、ということが強調されていた。 どちらの作品も甲乙つけがたいほど見ごたえのある映画だったが、やはり日本軍の戦闘を扱った「硫黄島からの手紙」がより身につまされ印象深かった。
 オープニングでいきなり 「こんな島アメ公にやっちまえばいいんだよ」、とか 「いっそのことこんな島アメリカにくれてやろうぜ。そうすりゃ家に帰れる」、などというこれまでの日本人が描いた戦争映画では決して出てこないモロ本音のセリフが吐かれ、驚いてしまう。
 当時の戦況を見ればすでにアメリカ軍はサイパン島に上陸していて、サイパンの飛行場から日本本土を大型長距離爆撃機B29で空襲できる距離にあったので、飛行場を整備して日本本土爆撃体制を着々と整えている最中であった。 太平洋地区での日本軍は制空権も制海権アメリカ側に制圧されていて、個別の孤島に軍がいて守備ているにしても手足をもがれたも同様の状態で、アメリカ軍としては無視できる存在だった。 それでもあえて硫黄島に上陸し占拠する戦いをアメリカ軍が仕掛けたのは、そこがもともと日本固有の領土(東京都小笠原村)であったからという理由だった。 約一ヶ月に渡る激しい戦闘の末、日本軍2万3千人はほぼ玉砕し戦死した。 日本軍の参謀本部はその戦いに援軍を送るでもなし、当初から硫黄島を見捨てていて、暗に2万3千人の兵の玉砕を了解していたと思われる。 今から思うと何でこんな情けなく腹立たしい戦いがなされたのだろうか、と歯がゆい思いでいっぱいになる。 連合艦隊の主力艦をほぼ失い、太平洋地区での制海権制空権がアメリカ軍に奪われた時点で、冷静に降伏という選択肢を言い出すものが参謀本部の中に一人もいなかったというのも驚きである。 当時の参謀本部の陸海軍のエリート官僚達の中には、戦争を戦略的に俯瞰して戦争を勝利に導く戦術を発案できる人間は残念ながら一人もいなかったようである。 超エリートが集まる軍学校での競争に生き残って、陸海軍官僚になった連中は出世競争には勝ち残って身分の安定を手にしたが、現実の戦争の見通しにおいて、自分の頭で戦略、戦術考える力のない、いわば乱世には何の役にも立たない無能な面々の集まりであったといえる。 問題は超エリート達だけではない、上意下達の軍隊において身を粉にして本土防衛の礎になるとして玉砕していっていった士官や多数の兵士達のことである。
 もちろんそこには昨今言われ出したマインドコントロールという問題も加味しておかねばならないだろう。 軍隊という閉鎖した集団内で何度も何度も同じことを暴力がらみで繰り返し叩き込まれると、普通の人間はまともな思考力を徐々に失っていってしまい、もう玉砕という選択肢しか頭に浮かばなくなってしまうのはことさら奇異なことではないだろう。 「こんなクソみたいな島、アメリカ軍にくれてやればいいんだ、そうすれば生きて帰れる」 そううそぶく一兵士の言葉こそ、「王様は裸だ」、という真実の言葉であり、現実や戦況が一番良く見えていて、自分の頭でしっかり考えたうえで吐かれているいる、唯一まともな言葉なのである。 国家という共同幻想、そしてそれが強いる玉砕という共同幻想、もしそれらをはね返す唯一のものがあるとするなら、生きたい、という生命としての自己の利己的な欲望というか自己幻想・・・最後はそこに依拠し、それを信じるしかないのだろうと思う。