私刑(リンチ)

 体調は相変わらす良くもなく悪くもなくだが、時々37度台の微熱が出る。 熱は続かなくてしばらくすると6度台に下がっていく。 そんなことに繰り返しが続いている。 
 クリント・イーストウッド監督映画「ミステック・リバー」をケーブルテレビで見る。 この映画は数年前嫁さんと映画館へ見に行った。 その時も最後のパレードの場面を見ながら立ち上がれないほど深く感動したのだが、今回も前回以上に心に染み入るものがあった。 二度目であるので、前回は見落としていたような細部などもより深く理解ができたと思った。 イーストウッド監督の映画はオフにとってほとんど外れがないほど好きな作品が多いが、中でもこの作品は好きである。 たまたまその時その場に居合わせたというだけのことで、取り返しのつかない悲惨な事件に巻き込まれた人々の極めて個別な問題を、ちょっとしたセリフや、何気なくはさまれた映像をメタファーにして社会背景にまで広げて展望させるという細工がなされている。 パレードの日、迷いと悔恨に沈んでいるジミー(ショーン・ペン)に向かって妻は言う。 「子供たちを誰よりも深く愛するあなたのしたことは正しいのよ。 あなたのやったことに間違いはないわ、たとえやり過ぎたとしても子供たちを守るために私たちはもっともっと強くなければならないのよ」、と寝ているジミーの上に跨り説得してしまう。 ジミーはその言葉に勇気づけられ反転して妻を組み敷いて抱く。 背景には星条旗がひるがえり、華やかなパレードが続いていく。
 今回はこの作品の本筋のテーマとは少し外れるが、私刑(リンチ)について少し触れてみたいと思う。 私刑(リンチ)といえば反社会的で陰惨なものを感じてしまう現代だが、広い意味で国家という機構が作られ、人々の間に国家という共同幻想が成立する以前は、それは社会の秩序を維持する上での重要な役割を果たしていた。  
 古代〜近世の社会では、驚くことかもしれないが一般民衆においては殺人罪のような罪では実際に検挙されなかった。 日本でも朝廷の検非違使(けびいし)や幕府の守護・侍所といった警察権力の担い手が、一般民衆の殺人事件に介入したり捜査して犯人を検挙するということはますありえなかった。 民衆の誰かが殺されて死んでいるというだけでは、公権力が捜査して犯人を検挙するような<事件>とは見なされていなかったのである。 民衆の生活や安全のために政治が行われているのではなく、支配階級である公家や武家や僧侶のために政治は行われるものだったからである。 今でいう警察や裁判も公権力の政治秩序維持や権益の維持のためにのみ機能していたといえる。 そのような社会は自力救済を原則とする社会であり、民間で発生する強盗、侵略、争いは自分たちで武装して対抗するしかなく、債権取立てなども法律に基づくというよりも、武装して強制的に取り立てる民間金融業者(土倉)の強制執行が普通だったのである。 つまり何か困ったことや理不尽なことがあったとしても、警察機構の役人に訴えても何も助けてくれない社会であり、逆に言えば自分達の実力行使で問題を解決する自力救済の正当性が認められている社会だったとも言える。 自力救済のために武装して紛争相手に戦いを挑み、そこで誰かが死亡したとしても、そういった問題は公権力が干渉する事件には通常ならず、朝廷や幕府が治安維持を行う領域はあくまで政治秩序や自らの権益の紛争や対立など極めて限定的なものであった。
 近世の江戸期の幕藩体制でも、日本全国に約300の藩が独自の法律と権力を持って存立しており、江戸幕府の藩への支配力は限定的なものに過ぎなかったし、江戸や大阪、京都などの都市化した街以外は全国の各地の都市といえど人口は数千人から数万人程度で、せいぜい村落共同体の延長社会であった。 村落共同体が人々の生きる社会であり、その村落共同体の掟や秩序に逆らえば当然のこととして私刑もありうるし、そこから追い出されることであり、追われることはほぼ生きていけないこと=死を意味することでもあった。