「釈超空ノート」

 体調は決して悪くないのだが、時々37度台の熱が出てしばらくすると下がる。 金曜日に受診を考えていたのだが、当日の朝熱は下がっていたので見送ることにした。 一応抗生剤を飲んでいるのだが、このまま熱が続けば来週にも受診して採血をしてもらうつもりでいる。
 ここのところ富岡多恵子著の「釈超空ノート」を読んでいる。 釈超空とは民俗学者折口信夫の詩人というか歌人としてのペンネームである。 柳田国男と並び立つ日本の民俗学者の双璧、折口信夫ホモセクシャルな同性愛者だった。 そのことは折口信夫が亡くなった後、同性愛の相手を勤めていた弟子がカミングアウトして広く知られている事実である。 この作品はその民俗学者折口信夫の別名、歌人としての釈超空の作品を通して作品の裏に隠されているホモセクシャルな熱い思い<恋愛>をキーワードにその虚と実を読み解いていくスリリングな面白さに満ち満ちた秀作である。 だが、どこか息が詰まってしまうようなというか、切羽詰ったような後ろ暗さのようなものを覚えてしまう。 もともと道ならぬ愛というか、同性愛にはそのようなものが付き纏うのは当然だと言ってしまえばそれまでなのだが。 その重さは著名な民俗学者であり、こんな言い方をすれば分かりやすいのであえて使うが、右翼的なというか、体制的な人物の同性愛というものが持つ重苦しさ、それが体制的ということで何重にも倍加されている気がする。 本来体制的な、あるいは保守的な人々は同性愛のようなアブノーマルなものに対しては容赦のない批判や嫌悪感を浴びせかけるのが常であるからだろうと思うが・・・。
 何年か前にアカデミー賞をいくつか受賞した作品「アメリカン・ビューティ」という映画があった。 オフのお気に入りの映画なのだが、その映画の中に同性愛であることをカミングアウトして同棲しているどちらかと言えば進歩的な、あっけらかんとした男二人と、規律こそが重要だとする元軍人が出てくるのが、この元軍人は隠れ同性愛者であり、隠しているだけにより陰湿な体質と変形して暴力的になっている、その対比が絶妙に描かれていて結構笑えた。
 数年前、田舎から嫁さんとJRの電車雷鳥に乗って大阪に向かっていたが、途中の金沢で電車が10分間ほど停車することがあった。 その時オフたちの坐っている座席と通路をはさんで反対側の席に、ちょっと堀の深い濃い顔立ちをした若い女性が乗り込んで来て坐っていた。 その人には見送りの男性がいて、男はホームに立ちながら人差し指と中指の二本でVサインを作りガラス窓に当てていた。 中の女性もそれに合わせて指二本でVサインを作り、外の男の指を合わすようにガラス窓の同じ位置に指を当てていた。 なかなか粋なことをしているなぁ・・・と思いながら何となく微笑ましくそれを見ていたのだが、フトそれまで若い女性だとばかり思っていた人が、あれ、男だなぁ、と気が付いた。 横に坐っていた嫁さんに、「向こう側の席の人、男か?女か?」、そっと訊くと、嫁さんからは、「女でしょう」、と迷いない返事が返ってきたが、あれは綺麗に化粧しているけど男だったと思う。 そんな目であらためて観察すると・・・車内の美男?に反してホームの中年の男は、いかにも高価な服装で身を包んでいるのだが、まあ何と言うか、オスギやピーコどころではない、たぐいまれなるブ男で、まさに美女と野獣たがそれはそれで何となく微笑ましいものがある。 あらためて二人をまじまじと見ていると、二人の雰囲気からほんの少し前まで、駅近くのホテルか何処かで、二人だけの濃密な時間を過ごしていたといった生々しい熱気や匂いまでが漂ってきそうな雰囲気を漂わせている。 男同士というか、男同士だからこそ熱いものが何倍も倍化されて伝わって来るのか・・・と息苦しい思いで二人を見つめていた。