ナンパ・・・

 今日が五月五日だが、三十数年前のこの日がちょうど前妻とオフが出逢った日にあたる。 出逢った場所はかの有名な田園調布なのである。 田園調布は東急東横線田園調布駅を中心にして放射状に道路が伸びている街で、真ん中の道路の突き当りに蓬莱公園という公園がある。 この公園は多摩川河岸段丘に当たる場所にあって、上と下との二つの公園に分かれていて、上下の公園はいくつかの階段で結ばれている。 
 三十数年前の五月五日も朝から爽やかに晴れた気持ちのよい日だった。 オフは当時職場が渋谷にあり、川崎市の元住吉と渋谷間を電車で通っていた。 前々から一度その途中にある田園調布駅で途中下車して、噂に聞く高級住宅街をゆっくり散策してみたいなぁと思っていた。 五月五日田園調布駅に降りて、とりあえず駅前の大きな地図を見て蓬莱公園へ向かった。 駅の売店で買った競馬新聞を公園のベンチで読もうかと思っていた。 蓬莱公園は木々が茂った静かな公園で、近所の裕福な住人らしき人々が何人か、キャンバスを据えてサンデーペインターというか、のんびり絵を描いたりしていた。 公園のベンチに座り、一人競馬新聞を見ながらその日のレースなどを検討していた。 そんな時に目の端に濃いブラウンのツーピースを来た若い女の人が、下の公園へ降りていく後ろ姿がチラリと見えた。 しばらくベンチに坐ってレースを検討していたが、それにも飽きて立ち上がって階段を降りて下の公園に行ってみた。 下の公園は子供用のブランコとか滑り台とか砂場などがある広々とした明るい公園だった。 そこでもベンチに腰を下ろして子供たちが遊んでいる姿などをボンヤリ見ていた。 その中に子供たちと遊んでいる若い女の人がいて、先ほど目の端をかすった黒のトックリセーターの上にブラウンのツーピースを着た人だった。 何となく彼女を注目して見ていた。 ところがしばらくして二人の若い男が彼女に近づいて何か声をかけて話していた。 それを見て、友達?それともナンパ? だが男たちはすぐに彼女から離れていった。 それを見てなぜか、ああよかった、と思った。 しばらくして彼女は階段をゆっくりのぼり上の公園に向かった。 少し待ってからその後を追ってオフも階段を登っていった。 田園調布といえば当時も今も高級住宅街で有名なところであるが、多分この人はこの近所に住むお金持ちの家の娘さんだろうと思うのだが・・・はたしてどんな家に住んでいるんだろうか、見てみたいなぁ、と思い始めていた。 彼女は上の公園を通り抜けて、駅に向かう道を歩いていった。 オフは彼女の後姿を見ながら、少し遅れて道の反対側の歩道を歩きながらついていった。 駅へ続く広い道の両側は幹の太い銀杏並木で、若葉の間を抜けて落ちてくる五月のさわやかな光の陰影が彼女の髪の毛や後姿に降り注ぎ、それがドキドキするほど綺麗だった。 駅につくと彼女は切符を買うために自動販売機の前に並んだ。 アレレ・・・この近くの人ではなかったのかと思いなおし、何区間の切符を買うのか後ろに並んで見ていた。 彼女は一区間30円の切符を買った。 それなら定期でも大丈夫だと思いながらも、オフも同じように一区間30円の切符を買った。 彼女は改札を受け渋谷方面のホームに立ち、さっそく来た電車に乗ったので、オフもドア一つ離れた入口から同じ電車に乗った。 彼女は次の駅、自由が丘で降りて、さらに乗り換えのためホームを移動した。 今度は大井町線のホームに立って、来た電車に乗って旗の台で降た。 が再びホームを移り今度は池上線の電車に乗って、ようやく次の駅荏原中延の駅で降りた。 こんなところまで一区間で来れるのか、と驚きながらオフも少し離れて改札を出た。 改札を抜けると、ダウンタウン特有の狭い通りの商店街が左右に伸びていて、その道を歩いていく彼女の後姿があった。 その姿を目で追いながら、どうしようかと少し迷った。 ここまで付いて来たのだから・・・思い切って声を掛けるしかないな・・・と思いなおし、先を進んでいた彼女の後を追いかけて、ここでちょっとでも躊躇したら、天国行っても後悔するのだ!と自分に言い聞かせながら・・・追い着いて、<我プライド地獄に落ちろ!>呪文の言葉を心の内で呟き・・・後ろから彼女の肩を軽く叩いていた。 彼女は立ち止まり振り向いた。 「あの〜、ちょっとお茶でも飲みませんか」、と言っていた。 なんて俺って不様なんだ、いつも、いつも、いつも・・・自分を・・・惨めな気持ちでいっぱいになってしまう。 彼女の返事は一言、飲みたくないわ・・・取り付くシマもないお断わりだった。