男と女はいつまでも・・・

 前回いきなりエドガー・アラン・ポーの詩二編などを取り上げたのだが、これには少々意図があった。 今日は少々顰蹙モノかもしれないが、ざっくばらんに話を進めよう・・・ポーさんは男ちゅうもんはしょうがないモンやで・・・と言う意味で取り上げようとした。 ポーは個人的にはとくに好きな作家ではないが、かくべつ恨みなどあるわけではないから・・・ポーにとっては少々迷惑な話かもしれない。 ポーが大好きな人に言わせれば、取り上げたアナベル・リーの詩は若妻を思う純粋な気持ちを詠ったもっとも美しい詩ということになるらしいのだが・・・たしかにこの詩だけを取り上げればそうかもしれない。 しかし、ポーも男である。 幼い妻ヴァージニィアが亡くなって一年ほどのうちに初恋の女性エルミーラに結婚を申し込んでいる。 それどころではない、その少し前に、もう一人の別の女性にも結婚を申し込んでいる。 サラ・ヘレン・ホイットマンという女流詩人にも求婚したのらしいのだが、断られている。 男の立場から見れば、そうだとしてもまあ、ことさら不思議なことではないのだが、これがオフの嫁さんなどになると、亡くなった若妻に思いをこめた美しい詩を書いておきながら、その舌の根も渇かない内にナニヨ!となる。

 以下は前にも一度書いたネタだが、オフの若い頃に流行った唄に「港町ブルースhttp://www.youtube.com/watch?v=79TjIymMYAAというのがあった。 歌手の森進一が詠っていた。 その唄の四番に

 ♪ 別れりゃ三月待ちわびる 女心のやるせなさ  明日はいらない 今夜が欲しい〜

 若い頃、この唄を聴きながら思った・・・好きな女に こんな言葉をしみじみ言われながら 二人きりで夜を徹して過ごしてみたいものだ・・・と思ったものである(笑)  しかし、この年になって思うのだ が、女は決してこんな馬鹿なセリフを言わないだろうなぁ、と思う。 こんなセリフや歌詞やシチュエーションを考えるのは間違いなく男なのである。 ちなみにこの唄を作詞したのは、深津武、なかにし礼という男二人である。 まことに卑俗な言い方なんだが<あの女とヤレルなら死んでもいい>という言い方がある。 今の若者たちはこんな言い方をするのかどうか知らないが、オフたちが若い頃にはまだこのような言い方が男同士の間では生きていた。 だからと言ってもちろん<そうする>ということではないのだが・・・昔オフはよく<男と言うものは好きな女とヤレルと思うなら、地球の裏側にまでも行くものなんだ>という言い方をして、女を笑わせていたことがあったが。半分冗談、半分本気であった。
 男と言うものは、ありていに言えば 今夜がありさえすればよい、明日はなくても・・・とマジで思うものなのである。 ところが女はそうではない、女はそれでは困るのである。 今夜も欲しいが、明日も欲しいのである。 これを女は欲張りだなぁと言えばたしかに欲張りだと言えるのだが、生む性と、種をつける性の違いと言い換えればそれまでなのだが・・・。<種を撒いて歩くのが男、種を受けて育てるのが女>・・・と言っていた女もいたっけ・・・そうそう、<男は関係して終わるけど、女はそこから始まるのよ>という言い方をしていた相手もあったなぁ・・・う〜んそう言えば・・・<一緒にならベニテングダケを食べてもいいわ>とも言われたっけ・・・(笑)
 一時、女性側の結婚の条件として<三高>という言葉が言われ、その功利的と言うか即物的なことが揶揄的に話題にされていた。 三高、すなわち、高学歴、高収入、高身長のことであるが、これも結婚が女性にとってたんなる一時的な恋愛の帰結などではなくて、その後の生活というか、子育てをも含めての生活全般を視野に入れているということから来ていること踏まえているからだろう。
 何でこんなとりとめのない話を持ち出したかと言えば、嫁さんの姪が、最近私の周りの結婚している友達夫婦の間で浮気や不倫の話がやたら多いのよ・・・と電話して来たと聴いたことが動機になっている。 姪は三十台前半であるが、まあ昔から男は浮気をするもので今に始まったことではないのだが・・・。
 しかし、どうして飽きもせず人は浮気や不倫をするのだろう。 たしかに浮気をするのは昔から男が圧倒的に多いのだが、一人の男が浮気をするということは、当然のことだがその相手をする女もかならず一人いると言うことであるから、言ってみればこれは対等な関係なのだよなぁ。
 よく言われる理由に、男はいろんな相手に種を付けて自分のDNAを持つ子孫をあちらこちらに残しておきたいからだ、と言う説明がある。 もっともらしく聞こえるが、すでに人間は動物のように本能の命じるままセックスをしているわけではないのである。 何となくそうではないかなぁと言えるものに、欲望は間脳とか小脳などの古い脳の部位でコントロールされていて、その後発達した大脳がそれらの古い脳の欲望のあり方と大きく矛盾しないような仕方に性的な幻想を膨らましていったたからである・・・という説明があるが、何となく説得力がありそうだが、確たることは分からない。
 まあ、その問題はひとまずにして、ここで男はちゅうもんはしょうがないものだ、という話しから、突然男ちゅうもんは純情なものだ、という話しに強引に切り替える(笑) またアラン・ポーに話しは戻るが、一般的にいって男にとって初恋の人と言うのは、女性の場合と少し違って、なにか特別な思い入れのようなものがあるような気がする。 女性が初恋の人とか昔の恋人とかに後日逢って、普通のどこにでもいるよなオジサンになっていてガッカリしたわ、とあっけらかんと言うのとはよく聞く話である。 そんな時にはお前さんだって今はオバサンじゃん、と言われて、それはそうだけど・・・とそらとぼけて笑っていたりするが、どうも本当のところ女の人は、自分だけは変わらない、とでも思っているようなフシがある。 この場合、自分はさておき、あくまで相手を今の現実の中で見ているのだが、だが、だが、だが・・・・男性の場合は相手を今の現実と言うより、その当時の思いに照準を当てて見ているとでも言えばよいのか・・・その意味では、男のほうがずっと純情なのであると言いたい。
 純情と言うか、現実が見えていないと言うか、馬鹿というか・・・所詮、そういうことになるのだが・・・