「嵐が丘」の背景

 金曜日の日抗がん剤ベルケイドの点滴を受けてきたが、その日は前後に40錠ものステロイドも飲むのでハイになる。 今回はたいへんよく効いて夜中一睡も出来なかった。 さすがに次の日は身体も疲れてくるのだが、頭のほうがなかなか眠くならない。 安定剤のデパスを飲んで昨夜は夜の半分ぐらい眠ったかな。 さすがに今夜は眠れるだろうと思う。 ところが月、火曜日になるとステロイドの効果もなくなり、点滴したベルケイドの作用で足の痺れや痛みが強く出て来るし、とにかく身体がだるくて動かなくなる。 その後水、木曜日と徐々にそれが抜けて回復していくのだが、そしてまた金曜日になり点滴となる。 だが今週は一週薬を抜く週にあたり点滴はお休みである。 週末に田舎の友人達がお見舞いに来てくれる。

 高校時代の二年生の一学期でオフは意識的に勉強するのをやめてしまった。 英語の授業は二年生からテストの成績でAクラスとBクラスの分けられ、オフはBクラスに落ちさらに落ちたBクラスでもたちまち授業について行けなくなった。 オフの通っていた高校は田舎の3クラスしかない普通科だったが一応受験校で、二年の夏休みなのに大学受験に向けての夏季教習などが始まっていた。 とにかく、毎日が不安だった。 皆が勉強している時に一人その流れに背いてしまうことをだが・・・その不安を紛らすために、図書館で借りてきた文学書を読み始めた。 読まないでいると不安がたちまち頭を持ち上げてくるので、文学を読み始めたのだが、源氏物語を始めとする日本文学から世界文学など手当たり次第に片っ端から読んでいった。 その頃読んだ中で強く印象に残ったのが、日本の作家では夏目漱石太宰治だった。 世界ではドストェフスキー、カフカ、ジイド、カミュなどであった。 それらの作家はだいたい当時受けのよい作家だったが、ことごとく暗い小説が多がったようだ。 自分自身の気持ちが暗いから当然の結果だっただろうと思う。 それにしてもその頃暗い小説を手当たりしだい読んだことが、その後のオフの自我の形成に大きく影響したことだけは間違いない。 単独作品ではサルトルの「嘔吐」と、エミリー・ブロンテの「嵐が丘」が強烈な印象が残ってとくに好きだ作品だった。 「嘔吐」ではその中に出てくる<完璧な瞬間>というどちらかといえば哲学的な問題が引っかかり、そのことをめぐって一人いろいろと考えた。 一方「嵐が丘」だがヒースクリフという素性も分からない野生的な男が主人公で、自分を裏切った思う人々へのサディステックな復讐が作品の重要なテーマになっている。  
 ヒースクリフは「嵐が丘」の娘キャサリンに裏切られたと屋敷から姿を消すが、後日裕福な紳士になって当地へ戻ってくる。 それは自分を下働きにしたヒンドリー、キャサリンを奪ったエドガー、そして自分を捨てたキャサリン達への徹底した復讐のためだった。 この物語は18世紀の後半のイギリスの片田舎ヨークシャーの荒野が舞台であるが、最近世界史を読んでいて、そうだったのかと今更ながらその時代的な背景を知ったことがあったので、簡単に書いておく。
 大航海時代を経てヨーロッパは世界各地の大陸を植民地化したのだが、略奪や貿易の結果、おもに南米(銀鉱石を掘り出すためアフリカから大量の黒人奴隷が連れ込まれている)やアジアの日本などから大量の銀がヨーロッパに流入してくるのである。 その結果ヨーロッパ社会では17世紀にポルトガルに続いてスペイン、さらにオランダ、イギリスなどで広く慢性的にインフレが起き、つまり物価が高騰し、額面の固定した地代などに依存していた伝統的な封建貴族は徐々に没落していくのである。 その中でも目端の利く封建貴族は東インド会社などの株主になったり、香辛料、綿、絹などの貿易などで儲けた都市ブルジョアジーたちが代わって勃興してくるのである。 その一人が主人公のヒースクリフだったのだろうと思われる。 さらに付け加えるならば目端の利くブルジョアジーは、次に興ってきた産業革命イノベーションにも投資し、さらに大きく儲け産業資本家に育って行き、19世紀から花開く近代文明を支える原動力になる。 そうしてヨーロッパ社会は封建制から近代資本主義への移行が漸次進んでいったのである。 そういう時代や社会の変化の中で「嵐が丘」の中で書かれていたテーマ、勃興するものと没落するものの争い、葛藤が伴なわれて展開されていたわけである。 ちなみに日本では江戸時代から続いた多くの封建地主は太平洋戦争の敗戦まで温存された。 彼らは農業生産で上げた利益を軍事国債や三菱、住友などの財閥系社債などに投資し、戦争を下支えしていたが敗戦でそれらは紙くず、また銀行預金なども戦後インフレで大打撃、おまけに占領軍による農地解放で頼みの土地も失い、一気に没落してしまう。 その没落地主の頭のよい息子たちが田舎の受験校に集まって来ていて、オフの隣に席を並べて真面目に勉強していたのである。