文明の違い

 あんのじょう月、火曜日と体調は悪かた。 ステロイドが切れてきたのだろうが、両日とも夕方までベッドで寝ていたのだが、身体がだるいのでウトウトと眠っているばかりである。 それも今日、明日で少し薬が抜けて来るが明後日再び点滴となる。
 息子のブログに公園で遊ぶ二人の孫の画像がのっていた。 孫は現在4歳半と2歳半だが、あきらかに上の孫はカメラが意識されていて、自意識と言うか、自我が出来てきていることがはっきりと表情に出ている。
 産業革命を経て世界に近代文明が勃興して二〜三百年である。 それはユーラシア大陸の西の端で勃興し、現在の北米大陸アメリカ、そして大陸の東の端日本で花開いたが、それらの国が文化といえるものを持ったのはせいぜい1500年ほどでしかない。 大陸の中央部にはそれぞれ4千年以上前から続いている古い文明があって、そこではたえまなく文明の興亡が繰り返されていた。 もしこれらの新旧二つの地域の根底には異質なものが横たわっているとみなせば、世界の見え方、様相はかなり違って見えてくる。
 現在の世界は近代文明の発展段階の状態にあって、いまだ発展段階の遅い早いのムラがあるが、いずれ近代文明が世界に蔓延して遅かれグローバルな世界が訪れると見なすとするなら・・・現在の世界はグローバルで一様な近代文明が世界に蔓延している過程の時代だと言うことになる。
 長い歴史を持つ大陸地域では、次々に周辺に新しい文明が起こりそれらが内部というか中央に攻め込み、既存の文明や民族を根こそぎに破滅、破壊して覇権を確立し新しい文明を築き上げるということが繰り返されてきていた。 近代文明もしょせん覇権の表れであり、それらの一つに過ぎないと見なす世界観がそれらの地域の人々の世界認識であるとするなら・・・むしろ覇権を相対化してみる視点を持っているのは旧世界の文明だともいえる。
 われわれは近代化をあたかも産業の工業化や生活水準の高度化などをその指標として見ていて、それが達成されて遅かれ早かれ世界はグローバル化して均一化すると見なしているが、そう簡単ではない。  ここへ来て中国が産業の工業化を急いでいるが、それがすなわち均一な世界のグローバル化へ近づいていることにはならない。 また、20世紀において中近東地区でイギリスやアメリカの政策はことごとく破綻してしまったのはなぜだろう。  それに対するある種の答えのようなものが今日読んだブログの以下の文章から読み取れる
 ≪アメリカ人は先住民をほとんど皆殺しにして自分たちの国を作った。そのことが忘れられないために、これまで同じことを繰り返してきた。このことを最初に指摘したのはユングだった。 アメリカは戦争に負けたことがないために、「二度とこんなことはすまい」と誓う代わりに、同じことを繰り返すという道を歩むことにしたのである。≫ ー鈴木晶のブログ、優雅な生活ー
 ≪私たちが選ぶとしたら、それは「アメリカがいくら変わっても変わらない点」である。
 その過程で、インディアンの95%を殺戮して、バッファローを数千万頭殺して、原生林をあらかた切り倒してしまったんです。
結局、日本列島を二発の原爆(っていうすごい兵器をアメリカ人は発明したんですけどね)で焦土にして、そのあと朝鮮半島を焼き払い、インドシナ半島を焼き払い・・・「まだ、西に行ったのか。でも中国とインドは『パス』したんじゃないかな」 あ、そうです。よくわかりましたね。 「だって、アメリカ人は自然が嫌いだからさ。自然と未開を見ると『開拓』したくなっちゃうんだけど、中国とインドは四千年前から骨の髄まで『都市文化』だからね。都市はアメリカ人の開拓欲望を喚起しないだよ。」 はあ、そうなんだ。だから、そのあと・・・ 「西アジアに行ったんじゃないかな」 ご明察。アフガニスタンイラクに攻め込みました。≫  ー内田樹氏のブログー
 今や先進国では情報公開や政治プロセスの透明化は、インターネットによるウェブの普及によって情報革命として大幅に進んできている。 そのトレンドに対応できる国と対応できない国というだけでなく、国家を超えて個人レベルでの言論や表現の自由化がはかられているか否かは普遍原理として、その国家を評価するリトマスになっている。 聞くところによれば、中国では個人が自由にサイトやブログを開設できない規制も導入されており、サイト・ブログの運営をするためには、役所への届出と許認可が必要になっているとも言われている。 これだけでも中国はとんでもない社会である。 政府の厳しい監視・管理の下でしか情報発信やコミュニケーションができないという状況は、ウェブのメディアやデータベースとしての長所の大部分を失わせてしまうことにほかならなのだが、 それにもかかわらず、情報の無原則な公開や自由化は、国家の統一性や歴史性、ひいては国民性の共通基盤を突き崩していく危険なものとして国家や国民のアイデンティティの危機と認識されているのが中国なのだ。 グーグルが中国でのサービスの撤退を発表した今、中国と欧米や日本との間には単に政治体制の違いだけでなく、社会構造や生活様式の違いに根ざしている根深い問題が横たわっていることが、一段と顕在化してきている。 この問題の解決をグーグルはアメリカ政府に貿易障壁の問題として国家間の問題として解決を委ねることにしたとあるが、おそらく上手く行かないだろう。  ある社会がある状態にあることには、それなりの必然性と合理性がある。 それらを解明することを通じてしか、いかなる国も「自民族中心主義」から離脱することができないのであって、それこそが真の意味でのグローバル化が指し示している方向なのであるのだが・・・