臨床医師

 昨日抗がん剤の点滴のため病院へ行き受診する。 採血、採尿の結果白血球→39、血小板→12・4で最近のオフとしては決して悪い数値ではない。 昨日からベルケイドの点滴は6クール目に入るのだが、今回から量が減らされて18ミリグラムになった。 先日風呂での熱いお湯を足がぬるいと感じたことを医師に話し、個人的な希望としてはもっと薬の量を減らしてもらいたいと告げる。 医師はもう一段減量することは出来ないこともないが、それが治療の最低値になるのだが、もう少し様子を見てから考えましょうと返事をもらう。
 治療をする側である医師としては出来るだけ病気の再発を防ぎたいのだろうが、患者としてのオフは副作用に悩まされて日常を送るのはなるべく避けたい。 治療というのは、とくに癌などの場合いは終末も予想される治療なので、患者と医師とのその両者の兼ね合いをどこに置くのかということが大きな問題となる。 その辺のところについて医師と患者との間の意思の疎通が大切なんだろうと思うが、日本の医療現場ではその辺のコミュニケーションが十分になされているかと言えば、癌などの告知はなされるようになったがその問題から一歩身を引いているように思える。 最終的な治療の責任を負っているのは専門家である臨床の医師であるから、患者の生の感情などが入って来ることもある場から一歩身を引いていたいという気持ちは分からないでもない。 医師が癌患者を診ている場合、その最悪の場合というかターミナルまでの最短の場合のことを冷静に頭に入っているだろうと思うが、それは専門家として当然のことであってそれを分かった上で患者の現在の状態を冷静に判断している。 患者の言ってみれば愚痴のような副作用の細々した話しや、見当違いの症状など一緒くたにして聞かされているのも時間の無駄と思えてしまうのも分からないわけではない。 患者からのすればそんな細々した無駄のような話しでも頼みの綱である専門家に話し訊いてもらいたいのだが・・・。
 言っては悪いが、これまで接してきた医師の印象はどちらかと言えば患者の顔を見ているというより、そのデーターを見ているほうが多い医師が多かったような気がする。 患者と話し合う場合もお互いの顔を見てというより、カルテやデーターをうつむいて読みながらというほうが多かった印象ばかり残っている。 患者、つまり人と直に接してコミュニケーションを取ることが苦手だと言う医師が増えているとも訊く。 新米の医師の専門を選択する場合、麻酔科とか画像を読み取る専門とか臨床に出て直接患者と接することのない部門への希望者が最近増えているとも訊く。
 診察に忙しい臨床医師の治療とは違う立場から患者をケアする専門家である臨床心理士などがその辺の問題を担当するという分業体制が生まれつつある。 学校の現場などでもいじめとか不登校とかPTSDとか勉学の学習以外の問題が多様に出て来て、担任の先生だけでは対応できずに、それぞれの専門家を配置して別個に対応する流れになってきていると訊く。 そこで、さらなる部門の細分化によりそれぞれの専門家を増やし、分業化していくことで問題解決を図るというのが今日的な流れになってきている。 それぞれ部門を細分化していくことは組織をさらに大きくして問題を解決しようとすることであるのだが、なかなかそうは行かないのは組織の肥大化に伴ってかかる費用も大きくなるからだろう。
 以上のような問題に接しながら現在の日本を見て思うのだが、これらの問題の遠因の多くがこの国の学校教育にあるように思える。
 現在の学校教育は受験勉強の競争のエスカレートため、こうあってしかるべき正解の答えを求める勉強にあまりにも偏っているからだ思う。 たまにTVなどで見ていて思うのだが、日本でも幼稚園や小学校低学年の頃の子供たちはもう少し元気があるような気がする。 それが学校で学年が上がるごとに手を上げて発言したりしなくなる。 だんだんとものを言わなくなり、正解を言えない自分を恥じてしまい暗い顔をしてみなの前では黙り込む生徒が多くなる。 それぞれ個人が問題に対して自分の考えや意見を持つことを控えることが良しとされる雰囲気がこの国の現場では往々に見られる。 帰国子女たちが自分の意見や考えを主張すると村八分の目のパッシングを受けたりすることはよくあることだと訊くし、その理由がKYだからとも言われたりりする。 人とちょっと違う子供っぽい馬鹿な格好をしただけで、まわりから激しいパッシングを受ける文化。 出る杭は打たれる、あるいは異質な者はいじめられる、という日本文化の体質というか・・・違う意見を持ち出す前にあらかじめ周りとの和を考えることは大切なことだと教えられている。  そしてよりもの言わぬ多くの正解を選択できる頭のよいとされる生徒が最終的に大学の医学部へ合格して医師の道に進む。
 現実の世界では政治でも経済でも医療でも当然のことながら最初から正解はない。 常に正解がない状態で、手探りの状態ですべてを模索し、議論し、考え、決断しなければならないのである。 問題を前にして決まっている正解を言い当てるのが頭がよいことではなくて、自分なりに考えてそれを意見として出し、違う意見を前にして議論をすることで、よりベターな正解を導き出すということが大切なのだということが、この国ではきっちりと教えれていない。 現在の日本の教育の現場でそれがなされていない。
 物事をより広い視野で捉えれるような人こそ本当の意味で頭のよいと尊敬できる人であるが、もの言わぬ、あるいはもの言えぬ人たちではなくて、
もの言える頭のよい人が臨床の現場に増えることが大切だと思う。 もちろん医学の臨床の現場だけでなく政治や経済やすべての部門でそのような人たちが、ますます求められるのが現在であり21世紀の必要な人材なのである。 学校教育の現場でどのようにしたらそのような広い視野で物事を捉えれる頭のよい人が増えることを考え、早急に取り入れていくことことが今緊急な課題だと思える。 専門化した知識を詰め込むのは、大学の後半か大学院で徹底した教育でじゅうぶんだと思える。 もちろん細分化する分野での専門家も必要ではあるが、広い視野で物事を考えるのが苦手な人もいる。 そのようなあくまで臨床に向かないだろうと思われる人たち、もの言わないですむ人たちだが、専門化分野へ振り向けらるのは致し方ないというよりそれはごく自然な流れだろう。