麦飯、黒豆

 昨日の夜食から毎日食べていた玄米を白米に切り替えた。 玄米がなくなったからであるが・・・玄米は昨年の夏田舎へ帰ったときに買って帰ってきたものである。 30キロ買って帰って一人で食べ続けていたから、その量で半年持ったことになる。 白米に切り変えた理由は大した事でない。 フトしたことで麦飯を食べたくなったからである。 そこで昨日は白米二合と押し麦一合と混ぜて炊いてみた。 久しぶりに食べる麦飯は美味しかった。  麦入り飯は白米だけの飯よりソフトな感じがするし、消化も悪く ないので当分、梅雨明け頃まで麦入り飯を続けるつもりである。 ただし夏場の麦飯は冷えると極端に不味くなる。
 そうそう、食べ物の話題では二、三日前に黒豆を煮た。 台所の引き出しの中に嫁さんが買っておいた黒豆が一袋あったので、それを煮ることにした。 オフのバアサンが正月に煮ていたようにコンニャクと牛蒡と一緒に入れて煮てみた。 バアサンの黒豆はよくある正月のふっくらとした柔らかい黒豆の含め煮とは違って、表面に皺のよった硬い黒豆の煮物である。 正月のたびそんな硬い黒豆の煮物を食べてきたので、表面に皺のよった硬い黒豆がオフの好きな煮物となってしまったようだ。 二、三時間水に浸してふやかした黒豆を出汁で煮込んだのだが、昔食べたほどには硬く仕上がらなかった。 おそらくバアサンはふやかすこともしないで、いきなり煮ていたのでないかと思う。 それにバアサンの煮物の甘みは半端でなかった・・・芸者上がりのバアサンは何でも甘い味が好きで、とにかく砂糖をふんだんに使って何でも甘く煮ていた。 今回の煮物にはオフは砂糖は砂糖でも氷砂糖を使った。 同じ砂糖でも氷砂糖を使えば煮上がりがあっさりとした甘みに仕上がるからだが・・・

 田舎の砺波市美術館でよく知っている女の画家さんの企画展が開かれている。 その展覧会の案内状が先日届いていたが、彼女の展覧会は数年ぶりなのでこの間の作品を行って見てみたいのだが、今のオフの状態ではそれは無理である。 
 「何か感じたとき目に映ったものを描いている。 身近な場所でも、日々の思いによって、輝いて映ることもある、なみだごしに見たりする。 それをとじこめてあるような作品と語った。」 地元の新聞の記事に書いてあったと展覧会に出かけた友人がメールで伝えてきていた。 これは本人が語っていてたしかにその通りだが、もう少し突っ込んで書くと・・・
 彼女は時代から取り残された寂れたような風景を好んで描くが、そのようなものから浮かび上がるのは単に時代から取り残され忘れ去られた淋しい感じだけではない。 そんな風景の奥に拒絶されているような行き場のない不安な感じが絵の中に封じ込められている。 まさにそれは不安感そのものなのであるが・・・ それは子供の頃見慣れない風景の中にたたずんだ時の、何処か落ち着かない不安な感じを思い起こすような・・・ また、目の前に川が流れていて、その川に橋が架かっているのだが、その橋のの向こう側は自分にとってまったくの見知らぬ異世界であるような・・・そんな異世界を前にした不安な感覚とでも言おうか・・・ あるいはさらに突っ込むと、大人の世界の何か分からないもめ事を感じ取れるのだが、それが何か分からないような、それが子供の心に不安感や違和感を落としているとでも言えばよいのか・・・そんな感覚が絵の中に隠されているような気がする。 もちろん彼女の絵はそんな絵ばかりではなくて、ホッとするような明るい感じが出ているのももちろんある。