免疫治療法

 昨日抗がん剤の点滴を受けに病院へ出かけたのだが、今回は一人で運転していった。 嫁さんがその前の夜中から頭痛と吐き気に悩まされて起き上がれなくなってしまった。 たしか前にもこんなことが年に一度ほどあった。 嫁さんが動けなると困るのはオフよりも下の階にいる嫁さんの92歳の父親である。 昨日はその父親の朝食に玉子粥をつくり、小便のバルーンに溜まっている尿を量って抜いて棄てる。 さらにベッドの横に置いてあるポーターブルトイレの便を棄てるなど最低限の世話をしてから病院へ出掛ける。 車の運転をするのは再発前の半年前の8月の夏に娘と田舎へ帰った時以来である。 運転の途中で最近時々出てくるチクチクする足の神経痛が出なければ・・・と思っていたが幸いそれはなかった。 ただ信号待ちの間アクセルを踏んでいるのが少しダルイので、停車中はなるべくサイドを引きギアをニュートラルにしするようにしていた。
 採血の結果はまあまあでとくに問題はなかった。 だが、足の先の神経の痛みのことを話すと医師は、それでは次回の6クール目から抗がん剤の量を少し減らしますか、というので、そうしてもらいたい、と答える。 現在はベルケイドが1回の点滴につき23mg入っているのだが、それを8mg減らして15mgと3分の1減らすことに決まった。
 その点滴を入れたせいだろう昨夜から再び副作用による下痢が始まっているのだが、下痢止めの薬を飲んだのだが今日もまだじわじわ続いていている。 このようにして副作用が少しずつ身体に広がり、強まっていくのかと思うだけで気分は憂鬱になる。 まあ、体内にガンの働きを抑えるために抗がん剤という毒を入れている訳である。 その毒がガン細胞だけに効くのだと良いのだがそうはいかない。 ベルケイドはガン細胞そのものを破壊するのではなくて、その中のプロテアゾームという酵素に働くというスグレモノな薬なのだ。 そのプロテアゾームという酵素は骨髄の働きを亢進する働きをしているのだが、それが亢進しすぎて細胞をガン化させてしまう。 ベルケイドはプロテアゾームの働きを抑えてくれる。 だがプロテアゾームはその他いろいろの場所で働いている。 コンピュータの二進法とは違って、いろいろな働きを担わされているからである。 たとえば手足の末梢神経の中でも働きをしているが、正常なそれにも働いてしまう。 それが副作用として現れてしまうという訳である。
 少し前にも引用したように、抗ガン剤や放射線による化学療法でガン細胞などの「悪い細胞」を死に至らしめようとした場合、そのパワーが強力すぎて細胞はネクローシスにより死を迎えてしまう。 つまり正常細胞が傷付いてしまうのだ。 ネクローシスとはいわば「きたない死」で、細胞全体が殺されて飛び散るように死に至るという。 細胞膜を壊し、死んだ細胞から酵素が飛び出し、正常な細胞を傷つけてしまう。 化学療法でガン退治をした場合、激しい嘔吐、脱毛、激痛、その他相当な副作用に襲われてしまう。 また抗がん剤を使う場合毒である抗がん剤を体内に入れる時に、身体は体内にある免疫機構を使って毒が体内に入るのを防護しはばもうとするので、その力を弱めるために免疫抑制剤を使うことになる。 その免疫抑制剤がわゆる副腎脂質ホルモン、ステロイドである。 ステロイドよって身体の免疫を抑制するため身体はいろんな病原菌に対してその抵抗力を弱めてしまい、それらに感染するリスクが高まる。 また本来の身体に自然に備わっている治癒力も毒と拮抗しようとするのも良し悪し的な働きとなってしまう。
 そんなことごとへの批判もあり、現在のガン治療のあり方とは違う治療法が模索されている。 それが免疫治療法と言われている治療法である。 その考えは免疫力を高めてガン細胞の力をそぎ最終的に消滅や死に至らしめようというわけである。 免疫力が活性してガン細胞などの「悪い細胞」を死に至らしめた場合、その死をアポトーシスへ導くので、正常細胞に悪い影響が起こらないことが分かっている。 よって、免疫療法的な治療法は副作用なしに自己の治癒力も使いガンの根治が期待できる治療法であるともいえる。 しかしガン細胞が体内で急に威力を増すような場合どちらかと言えば泥縄式なこの療法では到底ガンに太刀打ち出来ない場合が多い。 副作用も少なく根治が期待できる理想の治療法であるが、応急的には間に合わず短期での成果が期待しづらい治療法でもあり、今後の研究の進展が望まれる。
 嫁さんのほうは体が脱水になるの防ぐため少しだけのお茶を飲むだけで、昨日から何も食べていなかったが、今日午後ようやく起き出して饂飩を少しばかり口にしたので一安心である。 また階下の父親はマンションの別の棟にに住む嫁さんの兄が、コンビニで昼食や夕食にオニギリや寿司などを買ってきてくれている。 そのついでに便や小便を捨てた時に手が濡れたとかと妹である嫁さんに電話で報告してきている。 息子が親の便などを扱うことはまれなことだろうから、よい経験だろうと思って眺めるだけにしている。