チャタレィ裁判

 昨日がんセンターで受診して抗がん剤の点滴を受けてきた。 採血、採尿の結果は最近ではかなり良好で白血球→45(前44)血小板→10・1(前9・4) 菌の感染を示すCRP→0・0(前0・1)
 久しぶりに帰りに魚の棚商店街で鮮魚と野菜を買って帰った。 魚はナマコ、ミミイカ、白いヨシエビ、鯖、鰯など。 とくにこの時期ナマコを酢の物にして食べるとコリコリと美味しい。 また、ミミイカは抱卵していてこれも美味しいのだが、底引き網で取るのだろうか、卵を持っているものほど砂をかんでいることが多い・・・かと言って下拵えで身を抜いて砂取りをすると美味しさ半減で・・・まったく痛し痒しだよ。 野菜では変わったところで芹とか空芯菜、チコリなどを買ってきた。
  ところが家に帰り着いた頃から急に重い疲労感が出てきて、立っていることさえつらくなりベッドに倒れこんでそのまま眠ってしまった。 寝て起きてからは重い疲労感は取れたのだが、軽い下痢症状が出てレスキュウー用にもらってきた下痢止めを飲む。 夜寝る頃になって身体が軽い躁状態になり眠れなくなった。 ステロイドが入っているので仕方ないかと本を読んだり、頻繁にチャンネルを変えて深夜TVを観たり、このように落ち着かないのは眠れないのに集中力が続かないのである。 それでも朝方4時を過ぎたあたりから1時間半ほど眠れたかな・・・
 ちなみに深夜に見た映画は「チャタレィ夫人の恋人」で本家イギリスのケン・ラッセル監督のオリジナル完全版。 少し前にあのエマニエル夫人のシルビア・クリステルがヒロインを演じてたフランス版も観たのだが、イギリス版はブルジョア生活のかなりお堅い雰囲気とそれに抗して生きることがすなわち自由につながると言うところを前面に出していたし、フランス版では自己の感情の声に従って生きることが自然であり自由なのだというところが前面に出ていた。 どちらも原作の持つテーマ性を損なっていないと思うが、そのあたりの違いはお国柄の持っている基本的な生に対するスタンスの違いといったところなのだろう。 それでは日本ではどのように展開されるのかと考えた時に、個人の自由という普遍的なテーマより、不倫とか世間の目とか親子の繋がりの問題とか儒教的な縛りがどうしても背後から絡んできてしまいそうだ。 当時発売されていた「チャタレィ夫人の恋人」はイギリスのD・H・ロレンス原作(翻訳・伊藤整)の小説だが、この小説の日本語への翻訳本は最高検察庁ワイセツだとして押収を指令し発禁処分にした。 それでペンクラブの作家などが抗議をして最高裁まで裁判で争われることになった。 現在では信じられないような保守的な倫理観にもとづく裁判だが、検察側の主張は
 ≪「戦傷の結果、性交不能に陥いった夫クリフォードを持つその妻コニィが、性交の満足を他の異性に求めて不倫なる私通を重ねる物語を叙述せる」本書の12箇所の記述が、「人聞の憧憬する美は性交の動態とその愉悦を創造する発情の発揮なりと迷信し、蔽もなく恥もなき性欲の遂行に没り人闘の羞恥を性欲の中に殺したる男女の姿態と感応享楽の情態とを露骨詳細に描写し」たものであるとした。 「これがため我国現代の一般読者に対し欲情を連想せしめて性欲を刺戟興奮し且人間の孟恥心と嫌悪の感を催おさしめるに足るワイセツの文書」≫ <法による文学規制と<法と文学 : チャタレイ裁判再考 北大法学論集, 57(2): 1-50から>
 結局裁判の結果この小説の表現はワイセツだという判決が出た。 それについて最高裁
 ≪「卑猥文書は性欲を興奮、刺激し人間をしてその動物的存在の面を明瞭に意識させるから、羞恥の感情をいだかせしめる。そしてそれは人間の性に関する良心を麻痺させ、理性による制限を度外視し、奔放、無制限に振舞い、性道徳、性秩序を無視することを誘発する危険を包蔵している。 性道徳に関しても法はその最小限度を維持することを任務とする≫ <同上から>
 このようなワイセツを争う裁判がマスコミを賑わしていたのはオフがまだ高校生の頃だった。 その判決の何年か後「チャタレィ夫人の恋人」の完訳本が文庫本で発売さたので、さっそく読んだことがあるのだが、どこの表現がワイセツなのかまったく分からなかった記憶だけが残っている。 検察の主張から読み取れるのは、この小説の12箇所の個々の表現がイヤラシク卑猥でワイセツだと言うより、この小説の持っている反社会性的な側面を不道徳、反社会的であるからという理由で当局は取り締まりたかったのではないかと思われる。
 オフも現在インターネットのお気に入りにアダルトサイトを三箇所ばかり載せている。 と言うことは時々そこを開いて漫然と覗いている訳であるが・・・一般的に言って卑猥だとかワイセツだとかは個人の幻想の問題であるだろう。 もちろんアダルトサイトの性交の動画などは子供に公然と見せることには賛成できないが、だからと言ってそれが卑猥だとかワイセツとか目くじらを立てて規制、取り締まるまでのことには問題がある。 なぜならワイセツは人間の本源的なところに根ざしている快感に通じていることだからであって、無闇に権力が個人のその部分のプライバシーにある種の枠を設定して関わるのはきわめて危険なことである。 それは最終的には個人の生き方を取り締まることに進展してしまう可能性が大であるからだ。
 ベルケイドを点滴するようになってから本をあまり読めなくなったし(いまだガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読み終わっていないよ)、映画も観なくなっているが、継続的に本を読み続けたり、映像を観続ける集中力がどうも続かないのだ。 それがここへ来て映画を少しばかり観るようになって来た。 観たのはサム・ペーキンパー監督の「わらの犬」、デビット・リンチ監督の「ブルー・ベルベット」、それに大好きな「マイライフ・アズ・ア・ドック」ハルストレィム監督と、これまで一度観たことのある古い映画ばかりだが、古い映画だと何とか持続力が維持されるみたいだ。 その他何となく今また観たい映画にダスティン・ホフマンが主演していた「小さな巨人」もあるがこれはDVDが絶版のようだ。そうそう一作だけ最近の映画を観たっけ・・・デンマーク映画の「ある愛の風景」という映画で、これは悲しい映画だったなぁ。