地球のシステムに近づく

 相変わらず抗がん剤の点滴を受けてきた日の夜は眠れない。 点滴の前後に飲む40錠のデカドロン(ステロイド)が効いているからだ。 その次の夜は疲れて少し眠れるのだが、数時間で目が覚めてしまいその後は眠れない。 昨夜もぼんやりした頭で深夜にTVを点けて森の生態の映像を見て時間を過ごした。 三日目の今夜はさすがにまともに眠れるだろうが、その次の日はまた点滴の日となって眠れない・・・そんなことが繰り返す毎日。

 環境問題はどうして起きたのか。 それは簡単に言えば人間が余剰にモノを所有するようになったからである。
 人間が狩猟採集生活をしていた頃はチンパンジィーのように、たえず食料を求めて移動して生活していただろうと思われる。 あるところに沢山木の実などがあったとしても、食べる以上にその場で木の実を採取したとしてもそれを持って移動するための入れ物がなければ余剰に所有することは出来ない。 その内に作物を栽培農耕をはじめるようになり余剰な作物を保存することで定住が始まる。 また保存された食料を狙う略奪のための戦争もそれと同時に始まっただろうことは容易に想像できる。 そしてカースト制のように祭祀、戦士、商人、農夫、奴隷などの身分や階級制度が生まれる。 近世にはいり産業革命が始まり生産に人力や馬牛から機械が用いられそのエネルギー源として石油や石炭が使われるようになる。 楽して大量の余剰生産物が作られその結果モノが飛躍的に増えた。 とくに20世紀後半は石油の時代であった。 石油はエネルギー源としてだけではなく、化学製品として姿を変えて衣食住のありとあらゆる場面で製品化されている。 今やわれわれの身近な回りに石油が関わっていない品物はないといってよいだろう。 たとえば毎日食べるお米だって、その栽培、運搬、加工、炊飯すべてに渡って石油が使われているし、また最近は飲む水分ですらペットボトル入りでその容器から運搬、自販機や冷蔵したりする過程で石油が広く使われている。 皮肉を込めて石油を食べたり飲んでいるしていると言い換えてもよいような気がするこらいだ。 オフがまだ小学生低学年だった頃、小川や田んぼにはフナやドジョウがいて、川から捕っ来た魚を焼いて食べたりしていた。 それが昭和30年代に田んぼに農薬が撒かれるようになって小魚や昆虫などが身の回りから姿を消すと同時に環境が急激に悪化し始めていた。 その境目は今からせいぜい50年前頃のことなのである。
 われわれはこの間石油を掘り出し科学技術の進歩の恩恵に浴しているが、同時に環境の悪化というありがたくないオマケも同時に受け取っている。 地球の温暖化がいわれるようになり、環境の悪化をさらなる科学技術の進歩や開発で乗り切ろうとしている。 しかし、われわれが余剰にモノを所有することを放棄することで、科学技術の進歩に頼らなくても環境が良くなる道、そんな幸せへの道もあるのだということを忘れないでいたい。
 安藤広重の浮世絵に描かれている風景を見ながら、その風景の中に自分が生きていることを思ってみるだけで、その風景の中の空気を吸っていることを思うだけで、生きていることの何とも言えない幸せな感じに包まれるのはオフだけなのだろうか?