人の欲望

 今週は抗がん剤の点滴がない週なので、精神的にもゆったりとしておれる。 日を追って手や足の痺れ感は薄らいでいったのだが、どういう訳か昨日あたりからまた味覚がおかしくなってきている。 甘さや塩辛さが分かりにくいのだ。 娘が買ってきてくれた大好きなドンクのクルミフランスを食べていて、アレレいつものと違うぞ塩味が足りないよ、と言うのだが、嫁さんや娘は普通の塩味だよと答える。  また甘みだが、おかしいので沖縄産の黒砂糖の塊を口に入れたがぜんぜん甘く感じない、関西風に言えばまさにスカな味なのだ。 舌や口の中にあるといわれている味覚センサーが、どういう訳かここへきてまた狂ってしまったようである。
 前回ネットのオークションに参加したことについて書いたが、その後いろいろか考えさせられた。 まず考えたのはこのようなオークションの場というのは、誰のための場なのかである。 
 簡単に言ってしまえば、そこはモノを売りたい人と買いたい人が参加しているから、いわば市場のようなものである。 それぞれ参加者は売るほうは何とかモノを売りたいし、買う人は少しでもよい品を安く買いたい、そんな双方の思惑が錯綜する場である。 両者は本来対等であるが、運営者の視線はよりどちらに比重が掛かるかとなると、たぶん不定期な参加者ではなくて、優良な売り手を抱え込めばそれだけ参加者も増えることから考えるなら売り手の側に行くだろう。 本来なら市場において対等なはずの買い手と売り手だが、これは資本主義の根幹にかかわる問題だろうが、資本の提供者に天秤は傾くことになる。 それは不況の時に国家が公的資金すなわち税金を投入しても大手銀行を救済する理屈に通じていく。
 また、誰が考え出したものか知らないが、最近はポイント制度というものあらゆるところで採用されている。 参加者がポイント制のように買えば買うだけお得ですよ、という幻想が介在出来ればしめたものである。その流れは流れは一方通行でドンドン膨らんでいけば買い手も売り手も皆ハッピーで何の問題はない。 しかし買い手にどれだけでも資金があるわけではないのだとしたら、その流れは何処かでストップをかけねばならない。 あるいは破産ということで強制的にもストップが掛かってしまう・・・と言えばよいのか。これも資本主義そのものの根本に関わる仕組みのように思える。 人々の欲望や思惑を自由放任にしておいても最後は神の手が働いてすべて上手くいく、と言ったのはアダム・スミスだった。 そこであらゆる意味で規制は自由な経済活動の歪めてしまい最期に神の手が働かなくしてしまうから、出来るだけいろんな規制を排除して経済を自由放任に任せておけば経済は本来の意味で自由に拡大発展する、と考えたのは先のFRB議長のグリーン・スパン氏だった。 しかしその結果、世界経済はサブプライムローン問題に端を発し、リーマン・ショックをきっかけにバブルが弾け世界的な大不況に突入した。 その結果人の欲望というのは時としてストップが掛からないという当たり前でしかも大切なことを、われわれはあらためて知らされることになった。 今回のオフもその偉そうなことを言える立場ではなくてオークションに参加した後、毎日ちょこちょことネットの売り場覗くようになり、この際だとばかりにあれも欲しくこれも欲しくなってしまい1〜2万円前後の品をさらに四点、収納ダストボックス2、レンジ台、野菜ストッカーの注文を出してしまい、嫁さんに叱られてようやくストップが掛かるという情けない始末に終わった。