『百年の孤独』 ガルシアマルケス

 今日は受診の日で、採血、採尿を受けた後医師による診察を受けるが採血のデーターが示されたが血小板が4・8でかなり低い。 結局予定されていた抗がん剤ベルケイドの点滴は今日は中止、見送りとなった。 体調のほうも昨日から尿の出が悪く、手足も痺れていてとにかく動くとすぐにだるくなる。 この後一週間点滴は休みになるので、再来週は少しは薬が抜け体調は戻るだろうと思うのだが・・・  
 ここのところゆらゆらと死について、とテーマを決めてブログに書いてきたが、妻の死について書いたところで一応お終いとする。 このテーマではこの後も気が向けば書いていくと思うが、とりあえず今回はこれでお終いとする。
 抗がん剤の副作用は日によって強弱はあるが相変わらず続いている。 点滴してきた日の夜である一昨日も眠れなかった・・・まあせいぜい1〜2時間ほど眠れたかどうか・・・しょぼしょぼした目でベッドの上でガルシア・マルケス著の『百年の孤独』を少しずつ読んでいた。 この本は次から次と奇想天外な話の展開が起きてメチャ面白い。 あまり面白いからわざとゆっくり読むようにしているが、眠れない夜に読むにはぴったりの本である。
 先進国で生きる私たちは自分を個人としての自己として意識することができるし、集団社会(国家)とは区別された自己(自我)として自由に自分の考えや感情を表現することもできる。 世界史的に見てもこういった近代的自我・個人が萌芽したのは、西欧でもせいぜい二百年程度前からに過ぎないのである。 ましてわが国では一般の庶民が近代的自我を形成して、個人として国家主義による集団論理と自己の論理の区別を意識することができたのは、戦争が終結してから後のことである。
 『百年の孤独』というこの小説の舞台になっているのは南米のコマンドという村であり、そこは前近代的な部族的社会(ゲマインシャフト)なのである。 当然のことながらそこはわれわれが住んでいる個人の思想の尊重とか、民主主義的な言論の自由だとかを前提にしている社会ではない。 まして人権とか、人命を尊重したり、和平を推進したり、社会福祉を充実させるなどという社会的な同意などはあろうずもない。 そんな前近代的な村で次々に起きた運命的な事件の数々が描かれている。 野望と絶望、悦楽と苦悶、幻想と現実、つまり生と死が渾然一体のカオス状態になっている渦巻いている・・・そしてそれらの背景に浮かび上がるのは人であることの孤独なのであるが・・・すなわちある一家、一族の運命ともいえる百年の孤独が、その運命自体が、この物語の主人公となっているような作品なのだと思う。