心の喪明け

 昨日診察、点滴に病院へ行ってきた。 予想していたよりも白血球27や血小板6・2と下がっていなくてベルケイドの点滴を受けることが出来た。 連休明けということもあり病院は混雑していて、お昼前に出掛けたのに帰ってきたのは夕方4時半で、雨模様もあってあたりは少し薄暗なり始めていた。 これから日が暮れるのが日一日早くなり、帰り路は木枯らしが吹き荒れ、人々は黙したままコートの襟を立てて前屈みに家路を急ぐ季節がもうすぐやってくる。
 数日前、作家の星野智幸氏がブログに以下のような書き込みがあった。
 ≪秋葉原の無差別殺傷事件の加藤智大被告が、被害者に送った謝罪文(要旨)を東京新聞で読む。 きわめてまじめで臆病な印象を抱く。物事にいい加減になれない性格なのではないか。だから気にしなくていいことも気にし、傷つきやすくなる。 最も痛々しく感じたくだり。 「家族や友人を理不尽に奪われる苦痛を想像すると、私の唯一の居場所だったネット掲示板で、「荒らし行為」でその存在を消された時に感じたような、我を忘れる怒りがそれに近いのではないかと思います。もちろん比べられるものではありませんが、申し訳ないという思いがより強くなります。」 加藤被告は、大切な人を奪われた感情を想像しようとして、本当に精一杯、自分が生涯で最も苦痛を感じた体験を思い起こそうとしたのだろう。そして、ネットで存在を否定された時の体験だと結論したのだろう。彼にはそれしか、人と接して苦痛を味わう場がなかったのだ。それほどまでに、「居場所」がなかったと認識していたのだ。奪われて苦痛を感じるような関係の人間が、彼にはいなかった≫
 まったく同様な感じを持つたのだが、なんともやるせない。 見捨てられているという感情、寄る辺ないという感情が、ひとの存在から生きる力を奪ってしまうこともある・・・のだと思う。
 何かを受け入れる、迎え入れるということとは、どういうことなのだろうか? アイデンティティにはかならず他者が必要であると言われる。 自分が同一人物だと感じることが出来るのは、他者(相手)との関係の中ではじめて実現されるからだろう。 誰かに見つめられている、誰かに話しかけられる、誰かに触れられている、そのような体験を通して、われわれは他者からの働きかけの相手として、はじめて自分、<わたし>を感受することが出来る。 言いかえれば、人は他者の誰かとして<わたし>を体験して、はじめて自分を感受するのだと・・・。 ということは、<わたし>のかけがえのなさとか、固有性などは、与えられている何かではなくて、他者との関係によって見いだされるものだということも出来るだろう。 わたしは「だれか」として相手から認められ、呼びかけられることで、わたしははじめて<わたし>になる、と言ってもよい。
 哲学者の鷲田精一氏はその著書『<聴く>ことの力』の中でケアや臨床の体験の「存在の世話」というべき行為の根拠付けを以下のように書いている。
≪他者をそのままそっくり肯定すること、条件をつけないで無条件で肯定する、そういう贈り物ができるかどうかは、ふたたびそのひとが、つまり贈るひと自身が、かってたった一度きりであっても、無条件でその存在を肯定された経験があるかどうかにかかっている。 おりこうさんだったからとか、静かにしていたとか、そんな保留条件なしに、その存在が全的に肯定されること、乳首をたっぷりふくませてもらい、乳で濡れた口許を拭ってもらい、落としたおもちゃをを拾ってもらい、便にまみれたお尻を上げてふいてもらい、髪を、顎の下、脇の下を、指の間、股の間をていねいに洗ってもらった経験、相手の側からすれば、他者の存在をそっくりそのまま受容してなされる「存在の世話」というべき行為である。 ケアの根っこにあるべき経験とはそういうものではないだろか。 ひとは生きるために、その出発点で、他者からの援助を必要としている≫

 妻の葬儀から四十九日も過ぎ、その年遅れていた雪が正月開けから降り出し、北陸にも降り積もった雪に閉じ込められる日々がめぐってきた。 その頃からそれまでの反動で妻の死以来続いていたオフのハイな気分はどんどん沈んでいき、うつ状態に落ち込んでいった。  その年は前の年から学生時代の京都の友人と、春になったら山で暮らし始めた四国の友人のところへ遊びに行こうと約束をしていたのだが、電話でのオフの言動にどこかおかしいと危惧したらしく、その旅行を早めて二月に出発と予定変更することになった。 
 四国の旅行のことについては書けばいろいろあるのだが簡単にしておく。 その時の四国の印象はというと色彩と匂いが飛びぬけて強烈な印象として残っている。 愛媛県の大洲にある友人の実家から、今度住むことになった山の家へ、そこの家で友人は家具造りをはじめたのだが、そこへ向かう途中の畑に咲いていた早咲きの菜の花の黄色――気が付いていなかったが、その時のオフの心の中ほぼモノトーン状態であったのだが、そこへ突然黄色の色が飛び込んで来た。 菜の花を見たときはそんな感じだったが、大きな驚きだった・・・あっ!色がある!黄色だ、と思わず叫んでいた。 次に匂いだが、宇和島城址公園に咲いていた寒緋桜。 鮮やかな濃いピンク色の木々の群落の下に立った時、クラクラするほどの強い匂いに包まれて・・・一瞬気が遠くなりそうになった・・・そんな強烈な匂いの思い出も残っている。
 前々から一度行きたかった大江健三郎の小説の舞台になった愛媛県肱川の中上流。 さらにその上流の愛媛と高知の県境の川沿いに友人が借りた山の家があり、そこで一泊した翌日、帰り道は南へ、高知へ向けて走るコースを走った。 宮本常一の代表作「忘れられた日本人」の舞台になった檮原村にどうしても立ち寄りたかったからだが・・・博労だった土佐源氏が逢引したのは何となくこの道端の淋しい集会所だったのではないかと勝手に特定した後、四万十川沿いに下って太平洋へ抜け、足摺岬を経て海沿いの道を宇和島へ抜けた。 そんな四国南西端のコースを周り、北陸へ帰ってきた時はすでに三月になっていた。
 雪解けも徐々に始まる季節で数日後思い立って雪に埋もれた山の家に向かった。 こちらの八尾の山の家は前の年大工さん手伝ってもらって、柱と梁だけに解体したが、その後屋根だけを葺いた状態で工事は中止していた。  妻が突然亡くなりその後工事を続けるかどうしようか迷っていたのだが、その時訪ねた山の家の圧倒的な存在感に深く心が打たれた。 そして、どうあろうとこの家をかならず完成しようとその場で決意した。 それ以降三年の年月を掛けて一人で黙々と天井を張り、床を敷いて、外壁や内壁の下地をして壁を塗り、便所、五右衛門風呂、中古品だが業務用のキッチンなどなどを作り、さらには内外の戸障子、つまり建具なども全部自分で手作りして山の家を完成させたることが出来た。
 そのように一人で山で家を作っていたある日のこと、夏の日の暑い夕方だった。 妻が亡くなった次の年だったが、突然雷に打たれたように<あること>に気が付いて仕事の手を止めた。 しばらく手を止めたままその事の意味を考えていたが、その内に目から涙がホロリと一筋流れ出した。 その後はもう堰を切ったように次から次と涙があふれて来てきて止まらなくなってしまった。 まわりに誰も人がいなのをよいことに、あたりかまわずオウオウと大きな声を上げて泣き出していた・・・それまで誰の死の時にも、一度も、妻の死の時でさえ涙を流がさなかったというのに・・・。 その瞬間、妻があの時何故回復してきて目を覚ましたのか・・・突然理解したのだった。 あの時・・・妻が目を覚ましたのは・・・どうしてもオフに伝えたかった大切なメッセージがあったからなのだ・・・あの時最期の力をふり絞って何とか身体を回復させて、それを伝えるために目を覚ましたのだということに気が付いたのだった。
 そうか、そうか・・・そのことを、その言葉を言いたくて、伝えたくて、目を覚まそうと妻は一生懸命だったのだ。 そしてその日が来て、ついに目を覚ました。 だが、魔法の力で人間の姿になった人魚姫は、その時すでに大切なものを失っていた・・・魔法使いはその力で人魚の下半身に人の足を約束してくれたが、魔法使いの出した条件は歩くたびに身体を切り裂くような痛みもさることながら、すべての言葉を失うこと、愛する王子の前で自分の気持ちを伝えるいかなる言葉を失うこと、つまり永遠に沈黙を強いる、という言ってみればこの上もない理不尽な交換条件だったのだ。
 そうでありながら、あのもどかしそうな悲しい目で、その目でオフにその言葉を、そのメッセージを何とか知らせようとし、あの時妻は必死だったのだろう。 そうか・・・そうか・・・ああ、そうだったのか・・・。 その伝わらないメッセージをつないで、そのもどかしい言葉をつないで、その祈りともいえる思いをつないで、人は人から人にバトンを渡すようにしてつないで、生きて下さいと祈りながら、人はそのようにしてこれまで生きつないできたのだ・・・と・・・
 当時、社会では女子高校生の援助交際という言葉が生まれて騒がれていた。 まわりの誰に迷惑を掛けていないのだから、援助交際のどこが、どうして悪いのよ。 と激しく問い返す娘達に、それを叱りなじっていた親や大人たちはみな息を呑むように言葉を失い、その問いに正面から答えることも出来ないで口を閉ざすよりなかった。 そんな時心理学者の河合隼雄氏は、それはあなたの魂が汚れるからいけないのだ・・・というそれなりの重い答えを返していたと思うが・・・当時のオフもまた、それには自分でも自信を持てる自分の言葉で明確な答えを出せないでいた。 また同じ頃、なぜ人は人を殺してはいけないの・・・と言う深刻な問いも発せられていたが、その問いに対しても、有識者をはじめ多くの大人たちは明確な返事が出来ないで、そのこと自体が大きな社会問題となっていた。 オフもそんな大人たちの一人だった。
 今ならオフはそれに迷うことなく明確に答えることが出来る。 人間がズット昔から人から人へとバトンタッチしてきている言葉 つまり人から人へとつなぐ大切な祈りのような思いが受け継がれて来ているのだと確信している。 それは普段われわれが日常的に何気なく、ひんぱんに使っている、たったの二語の簡単な日本語である・・・あの時必死の思いで妻が目を覚まして、オフにどうしてでもそれを伝えたかった言葉がそれだった。 その言葉をようやく山の家で仕事をしながら気が付いた。 妻からの祈りのような言葉を知った。 大切な祈りを迎え入れ受け取ることが出来た。 それを迎え入れた時、その時こそがオフの心の中で妻の死を迎え受け入れた時であり、本当の意味で妻に対する心の喪が明けた時だった。 そしてその祈りを受け取ったことで、オフは何の迷いもなく今後を生きていけると思ったし、そしてそれを迎え入れて受け継いでいくことが、すなわち人が生きていくことだったんだ、と心から理解出来た。
 妻が最期にオフに伝えようとしていた言葉は <ごめんなさい>と<ありがとう>だったと思う。 オフが受け取った妻から伝えられたその祈りともいえる言葉はその二語だった。