妻の死、葬儀

 ここのところ顔がむくんで腫れて来て、いわゆるムーンフェースになってきている。 ベルケイドの点滴前後に四十錠も飲んでいるデカドロン(ステロイド)のせいだと思うが、チョイト見た目には若返ったように見える。 今デジカメで写真を写しておいて葬儀の時に使うか、などと言って昨日嫁さんに数枚撮ってもらった。
 抗がん剤ベルケイドや同時に飲んでいる免疫抑制剤デカドロン(ステロイド)の副作用は相変わらず続いている。 手足のしびれ感が出て来ていて日によって強弱があるし、疲れやすい。 オフの場合さいわいにして現在働かなくてよい身分だが、長い時間拘束されない簡単なデスクワークなら出来ないこともないと思うが、この治療を続けながら仕事を続けていくのはむずかしいだろうと思う。 

 妻は下の息子を産んだあたりから長年仮面うつ病で苦しんできた。 何でもいいからうつ病から逃れようと、隠れてお酒を飲み始めるようになり、いわゆるキッチンドリンカーになっていった。 その結果肝臓を悪くして動けなくなり、GOTやGPTが何と1000台という信じられない数値が出て、強制入院を何度か繰り返していた。 だが、不思議なことにアルコールを断って一週間ほどで数値は急降下して退院できてしまうのだ。 そんな風にして身体を痛めつけていたせいでもないのだろうが、五十歳を目の前にして身体が動かなくなり、重度の間質肺炎で大学病院へ入院した。 病名は膠原病。 間質肺炎は膠原病由来であって、それが元で妻は鬼籍に入ってしまった。 膠原病というのは体内の血液中の抗体が自己の細胞の核などと反応して免疫複合体を作り、細胞や組織に沈着したり全身の関節・血管・内臓などを攻撃する病気である。 妻の場合、何らかの原因で作られた抗体が自分の肺を敵だと思い込み、肺を攻撃してしまったのである。 自分で自分の肉体を攻撃するのだから、免疫システムはまったく働かないので病状の進行が驚くほど早く、その結果肺の7割が短期間に間質化(硬化)してしまった。 膠原病はこのように自己免疫疾患としての機序が関与していると考えられているのだが、病態の解明は今だ出来ていない。 それゆえ今もそうだと思うが、妻が罹病した十年前には膠原病は難病の指定がなされていた。 妻は大学病院へ絶対安静の状態で入院したが、入院して一ヵ月後突然呼吸不全の発作を起こし、一時は危篤に近かったが持ち直し、後は完全に隔離されたクリーンルーム内へと移された。 そこでは肉体の各所のいろいろなデーターはナースステーションに送られモニターされ、薬で眠らされた状態で機械による完全管理状態で、妻はそれでも三ヶ月間生きていた。 余談になるが、その部屋の使用費や治療費も含めると一日あたり十数万円で、三ヶ月分で費用の合計は軽く一千万円を超える金額になった。 ただし難病ということであったので、こちらの支払い分は数十万円程度で済んで、大部分は国が肩代わりして支払ってくれたので大いに助かった。

 その三ヶ月間の間、妻は点滴される睡眠薬で強制的に眠らされた状態で、呼吸は完全に機械で管理され、胃へ直接液状の栄養クリームを送り込まれ、小便はバルーンへ送られ溜めて、便だけはオシメの交換を看護師の手で定期的に行われていた。 そのように管理された状態で呼吸している毎日だったが、妻は驚くことに少しずつであったが、自分で呼吸をする力を回復して始めきた。 担当だった若い医師もその回復に驚き、かなり期待をして、この調子でいけば最終的には車椅子に座ったままだが、酸素吸入をしながら病院を出て家庭で過ごせるようなところまで持って行けるかもしれない、という明るい見通しを語ってくれた。 そして自分の肺での呼吸する力が少しずつ増してきて、それが徐々に強くなり機械による呼吸を一時的にも止めることが出来そうだという状況が出てきた。 発作から二ヵ月ほど経過した頃だった。 いよいよ機械の呼吸から肺呼吸に切り替えを試みる日が医師により決められた。 睡眠薬の点滴を止めて眠り続けている妻に目を覚まさせて、自分の肺で呼吸をして過ごす試みをする日である。 オフはその日朝早くからから病室に待機した。 お昼頃医師の指示で睡眠薬の点滴が止められ、しばらくして眠り続けていた妻は静かに目を覚ました。 約二ヶ月ぶりに妻の目が開いたのだ。 だが、気管支切開されているので言葉をしゃべることは出来ない。 なんとか目を開いたがしゃべることの出来ない妻に、オフは妻が眠りについてからこの間あったことや、子供達動向などなどを話しかけた。 そうしていてもすぐに話の種は尽きるが、何か言っていないと間が持たないので、同じことを何度も何度も話すしかないのが少々辛かった。 そんな話を聞きながら妻は黙って小一時間ほど静かに目を開けていたのだが、モニターの前にいた医師は、少しずつ呼吸に乱れが出てきているので、今日のところはこれくらいにしておきますと宣言した。 止めていた睡眠薬を点滴が再び開始され、再び妻は眠りに着いた。 その直前に妻の目は眠るのに抗して、少し辛そうでもあり、悲しそうでもあり、何かをこちらに伝えようとしていたように思えたが、しゃべれないのでそれが何だったのか・・・オフには分からなかったし、当然それは伝わることはなかった。 その日はそのようにして終わった。 次回の日を設定されていたのだが、ところが次回はなくなった。 その日が頂点だっのだ。 それ以降、医師が期待したのとは裏腹に、モニターされる妻のデーターは日に日に弱っていくだけで、予定されたいた二回目の目覚めはついに試みることが出来ないまま終わった。 それから約一ヵ月間データーの数値は徐々に下がり続け、ついに11月の中頃妻は力尽きたように逝ってしまった。 その日オフはモニターされた数値を医師と共に見ながら、死の瞬間をただただ目で見ながら確認するだけけであった。 どこか虚しく身体の力が抜けたままで涙すら流れなかった。

 今にして思えば妻が亡くなった当初からその後も含めて、オフはかなりハイな状態が続いていていた。 亡くなった直後にとりあえず頭にあったのは、葬儀を出来るだけ簡素なものにしたいということであった。 これは数年前の祖父や祖母の大げさで華美な葬儀を体験した後の二人の間で度も話し合った同意事項であったからであるが・・・しかし簡素にするといっても葬儀の場で、どのようにしてそれを具体化してやるのかという事は少しも考えてなかった。 とりあえずその時オフの頭に浮かんだ簡素な葬儀をイメージは・・・葬儀は狭いが自宅でする、近所の人のお手伝いも丁重に断る、祭壇はお棺の上に白い布をかぶせるだけ、その上に一輪挿しの花瓶に花を一輪飾るだけ。 火葬場へはお棺をリヤカーに乗せて子供達と一緒に引いていく・・・というようなぼんやりしたイメージであった。 そのような簡素な葬儀なら、来る人から香典を受け取らなくても納得してもらえるだろうと思った。 そこで、どなたからも香典を受け取らない、と宣言することになった。 その宣言をするとそれまでそばで苦りきった顔をしていた叔父さんが、仕切り役が好きな人なのだが、とうとう怒り出してしまった。 その場で二人で怒鳴り合うことになり、あわや立ち上がって喧嘩になりそうになった。 皆が止めに入った後オフも少しは折れて、華だけは受け取る、としたものだから・・・お棺の周りは香典代わりの華、華、華で埋められて、急遽友達の家から花瓶をいくつか借りて間に合わせる羽目になった。 (まあ、今にして思えば、香典というのはお互いに贈り贈られする互助的な性格のものだから、受け取っておいてそれをユニセフにでも寄付をすればよかったかなと思っている。 ところでこの時の経緯は、ことのほか息子に強い印象を残したみたいだった。 先日見舞いに来てくれた上の息子がその時のことを、自分の信じるところを頑として言い張る父親に胸が熱くなったと・・・だが、その時オフの心の内は、そのようにすることにあらかじめ確たる信念があった訳ではなくて、ほとんどグラグラの迷い迷いの状態であったのだが・・・)
 さらにオフは無宗教者であるが、仏教そのものには少しのシンパシーを感じていたので、お寺の坊主を法名などは付けないよと断った上で呼んでお経を上げてもらったし、葬儀屋には霊柩車も依頼した。 また葬儀に続く初七日も引き出物なしの一万円の会費とした。 まあ、そんな風にして一風変わった葬儀と法事だったが、何とか無事終えることが出来た。
 しかし、オフのハイな気分は葬儀だけにとどまらずその後も続いていた。 葬儀の後、妻の遺骨は自宅の祭壇に置いてあったのだが、ある日一人で骨壷の蓋を開けて妻の骨のカケラを取り出して、それを口に入れた。 その時は自分でも何故そうするのか訳の分からないままであったが、とにかくぼんやりと妻のお骨を自分の体内へ入れて、妻と一体になりたいと思ったからであった。  正月の 松の内の三日の日が四十九日だったが、妻の遺骨を三つに分け、一つは子供達などとお墓に納め、一つは海、一つは畑に播いた。 畑に播いたのは焼かれて骨になった妻を、燐やカルシュウムなどの分子になってしまった妻を、畑に播けばそのうち作物である植物が取り込んで、それがいつか花となり実となって結び、それを収穫して食材として食することでわれらが生きていくことを感謝するという勝手な思いを込めての行為だった。