親父の最後

 昨日外来で受診。 採血の結果血小板値が3・4で、前回の2・6からっ少々アップしていた。 どうやら医師はこれで底を打ったと見ていて、とりあえず今回輸血は見送りとなる。 次回のベルケイドの点滴予定の来週の火曜日まで10近くまで値が上がっていれば予定通り点滴を継続していきますと言う。 たった五日間ほどでそんなに上がるだろうか? と疑問を呈すると そのあたりまで上がっていないと、ベルケイドを入れると再び下がってしまうリスクがあるので・・・と言うことらしい。
 少しは日を空けているので味覚などは少し戻って来ているが、まだまだ塩味や甘み、酸味はおかしなままだし、身体の痺れ感や夜よく眠れない日が続いている。 それもそうだが、集中力がなくて好きな読書が出来ない、と云うか読んでいてもすぐに飽きてしまい継続して読者が続けられない状態が続いている。 せっかくアマゾンで二千数百円もした待望のガルシア・マルケスの『百年の孤独』の新訳本を買ったというのに・・・だ。 これも薬の副作用の一つなのかと思うのだが・・・好きな読書が出来ないとなると、長くもないこの先の日々が半分つまらないものになってしまうよ・・・これが今のオフとって一番こたえることかなぁ。

 ゆるゆると死について・・・
 昔読んだ、『次郎物語』の中に、次郎のお爺さんが亡くなる前の話があったと思う。
 もう記憶はあいまいだが、その中に死の床に着いていた次郎のお爺さんがある日突然、自分の家の周りを見たいと言い出す。 そこで家の人たちはお爺さんを布団ごと戸板に乗せての周囲を回って見せる場面があったと思う。 どういう訳かそこの場面だけが、オフも実際にその場に居合わせたかように妙に生々しい印象で覚えている。 現在ででは笑えるような場面だが・・・それも何だか戦前の家族制度の中に生きた人の在り方の一つの典型のようなものを見るようでホッコリとした印象として残っている。

 オフの親父は数年前に亡くなっている。
 70歳頃から徐々にパーキンソン病におかされてそれが進行し最後は栄養は点滴とチューブで胃に送られ、肺へは器官切開で開けた管で酸素が送られていた。 下のほうは小便は導尿管でバルーンへ、大便だけはオムツて、これだけは人の手を借りる介護で取り替えるしかない状態だった。 意識はあるのかないのか分からないような植物状態だったが、それでもこころなしかオムツに大便がたまると何処か不快そうに見え、オムツを新しく取り替えてもらうと少し嬉しそうに見えた。 
 そんな親父が病院で死期を迎えていたころ書いていた日記を転載しておく。
 2003年11月3日
 気をはっていたのか、夜中の2時半頃目が覚めて眠れなくなり酒を飲む。 5時半に携帯の目覚ましがなって起きたが、頭がぼんやりしていた。 さっそくご飯を炊いたが、雨がポツリポツリと降って来る。 おにぎりを握ったが、病院より電話があり9時頃担当医から話があるから来て欲しいと連絡がある。
 二、三日前から親父の身体がむくみ始めどうやら腎不全を起こしているなぁという状態だったが、昨夜から一滴も小便が出ていないとのことだ。
 いよいよ来るものが来たなぁ、というのがその時の感想である。 今日は友人4人と近くの山へ登山する予定であったが、参加できないと連絡を入れる。
 もっとも、その時には小降りだが雨が本格的に降り始めていた。 皆は登山は来週に延ばし、ドブロク造りに切り替える話になり、病院から帰ると米を砥いで集まり、すでにその準備に入っていた。 病院では透析などのイチかバチかの延命治療を断り、このまま推移を見守ってくれ、と医者に頼む。 医者も何も言わないが、分りましたと何度も首を振っていた。
 2003年11月6日
 午前中もそうだったが、夕方頃も病院へ立ち寄った時親父は顔色は良くなかったが身体の腫れもほんの少し引いたかナァという感だっので、山の家へ向かった。  ところが丁度家に着いた頃に電話があり、心拍数が高くなっているという、聞くと150ほどあると言う。普通の人の倍ぐらいの数字だ。簡単にマロ君の散歩を済まし急いで炒飯を造って食べて、とんぼ返りで病院へ急ぐ。車を走らせながら寝たきりの病人が急に脈拍が高くなるのはどうしてだろう…考え付くのは何かの薬の副作用でる…多分点滴に利尿剤を入れてあってそれが心臓に作用しているのではないかと疑われるが…確かな事はわからない。
 病室には担当医と看護婦がいて、心拍数の高いことを聞くと血圧が低めだが安定しているのでさほど心配する事はないと言う。むしろ医者が心配しているのは脈拍よりも、浮腫みのほうだとのこと。少し小便が出るといっても、ほんの僅かで点滴から入る水分が身体に回り皮膚からジワジワと染み出て来ている。ちょつとした傷口などあるとそこからは特に激しいし、皮膚を押さえるとみるみる水分が染み出てくるのが見える。小便など汚れた体液が回ると身体が酸性化して来ることが心配なそうだ。
 一時間ほど病室で座って居たが、何もする事もなく閑でしょうがない。不謹慎な話しだが母親はよくこんな所で毎日過ごして居れるものだと思ってしまう。まあその分自分が楽できている訳だから、我ながら不謹慎だなぁと思うのだが… こんな状態がしばらく続きだんだん弱りでその時が来るのだろう・・・待っているのは外でもないその時なのである。その時に出来れば側について居たいそれだけであ・・・オフの場合親父に育てられなかったし、一度も共に暮らした事がないという事実がある。いわゆる世間的な常識に対しても、かなり他人行儀的というか義務的な感覚しかないが、これは自己の内部の感覚だからいわばどうしょうもない。そこを常識にそって演じていけば心の中は自己と演じるものの乖離がますます大きくなり虚無感にさいなまれる。いわば、当たり前ということ、つまり常識というものは、その社会の中でどれだけ多数の者がそのように感じれるのかで形作られているともいえる。
 死というものが全てがあきらかにするというのは本当なんだが、その本当をそのまま抱えて日常を生きれればそれに越したことはないのだろうが…自然そのものである死は現代の日常の中にはきっちり隠されている。人々はそれを清潔なもので包みたがっている、なるたけ人工的な日常へ持ちこみたがらない。
 人間だけが死者を埋葬する。それは人間には死者に対して尊厳をいだくからではない。自我が死を見たくないからだ。自我の死を目の当たりにすることを遠ざけたいからだ。あちらにもこちらのもウジが湧いてハエがたかり腐って行くムクロをみたくないからである。ただそれだけのことだ。 
 2003年11月22日
 親父が亡くなった。 19日のお昼前電話が掛ってきて病室へ到着した時刻が死亡時刻だった。
 よく親の死に目に会うとか、会えなかったと言ってそれを特別視したのは、昔のことで、昔はどうやらギリギリまで自分の心の内を秘していたりして、今際のキワに重要なことをこれこれの事を頼むとかと子供に伝えたりしたものだったらしい。 それは周りのものも、言い残すことはないか、と言ってそれを聞き取ったり、あるいは辞世の句などを聞き取ったり、いわば儀式めいた死に際が演じられていた時代の名残なのだろう。 現在では病院に居る限りギリギリまで治療を施すので、死際には、頑張れよ、とこちらが虚しく言うだけの他人行儀のまったく面白みのないものとなってしまっている。
 ともあれ、死因は急性腎不全による死と死亡診断書に記してあった。 小便が出なくなり、それが身体中に回り、身体のPHが酸性化して心臓に負担が掛り死んだものと考えられる、ということなのだろう。 翌日の二十日夜お通夜、翌二十一日10時より葬儀、午後初七日と続く。 親父は当然のことだが、オフも社会的には地位も名前もない身分なので、葬式には少ない身内親戚と近所や友人達、昔世話をした人達だけの少数の葬儀となったが、義理や付き合いで出ている人などは少ないこじんまりとして良き葬儀であった。
 三人の子供たちや弟夫婦とその二人の子供と久しぶりに顔を合わせることにになった。しかし一人身であるので、食事の世話や寝る布団の用意とか主婦の役もこなさねばならないので人が集まるのも嬉しい反面たいへんだ。 それらのものも今日全員が帰り、今夜は静かに一人で眠れそうだ。