よかった・・・

 一昨日退院したのだが、今回の入院は当初予定されていたものとしては最低期間で終えることが出来た。 しかし、今度の再発も最初の発病の時と同じように、医師も驚いているのだが、その出方がかなりな劇症であったので、そのままの状態でいれば今年内か、長くても来年初めにはオフの命は尽きていたと思う。 幸いここ数年臨床に認可され使われはじめている新薬(06ベルケイド、08サリドマイド)などが登場してきていたので、その治療に切り替えることが出来た。 その効果もあり今は嘘のように急激に症状も和らいで、今のところ1〜2年の延命は期待できそうな状態にある。 これが数年前であれば、打つ手なしの状態であったのか・・・と思えばかなり複雑な心境でいる。

 昨日、病院の帰り魚の棚商店街の魚屋で、地元の網に入った太刀魚、鯖、海老、ハモなどを買って帰った。 さっそく昨日はハモとゴボウをササガキにして柳川鍋をして食べた。 しかし、ハモの季節をとっくに過ぎているので1メートルほどの大きさの雌のハモだったが脂がまったく乗っていない。 つまり美味しくないということだが、残りはハモ鍋にしたり、中華風のうま煮にでもしてボチボチ食べるつもりでいる。 
 昔能登へ夏の夜釣りに行くとどうした訳かハモがよく釣れた年があった。 仕掛けを放り込んでおけば勝手にゴックンと飲み込んで釣れて来る。 本来そんな面白みのない釣りは好きでないのだが、ついでに簡単なことで釣れるので外道釣りのため竿を一本余分に出しておいて酒の肴のために何匹か釣って帰った。 面白いのは釣れた時に逆さまになって上がってくるのである。 つまり餌と一緒に針を飲見込んで、その針を何とかはずそうとして口を下にして身を釣り糸に絡み付けてもがいた状態で上がってくるのである。 これはハモだけでなく細長い魚であるアナゴなども同様なのだが・・・蛇のような長い魚が針を飲み込んでクネクネしている、針をはずすのが気持ち悪くてクラーボックスの上で糸を切って始末していた。

 またまた、ゆるゆると死について・・・
 部屋の椅子に座り窓からぼんやり庭を見ていたことがあった。 生垣の茂みの中に二羽の小鳥がもぐりこんで、その中で二羽は仲良く餌をついばんでいる静かな時間だった。 そのうちに一羽が生垣から少し顔をのぞかせ、一寸躊躇した後いきなり飛び立った。 その次の瞬間のことだった・・・突然黒い大きな影が上から鋭く刺さるように舞い降りてきて、小鳥は一瞬にしてその黒い影にしっかりと挟まれたままキキキと鳴き叫びもがいていた。 黒い影と思った大きな鳥は小鳥を押さえ込んだままサッと上空へと飛び去っていってしまった。 息を飲み込む間もないほどのほんの一瞬の出来事だった。 あれは鷹だったのか?・・・だろうか。 気が付くとまわりには小鳥が撒き散らした羽毛が何枚もただよっているだけだった。 もう一羽の小鳥はと見ると、生垣の中で凍りつくように動かないでいたが、暫らくして何処かへ逃げるように飛んでいった。
 
 ≪時に過酷なる自然の中で生きることは、大変だったに違いない。 野生の生きものを見ていると、いつもエサを探しているし、天敵に襲われないかとびくびくしている。 そんな中で、ひだまりの中のまどろみのような時間もある。 文明を発達させた人間は、さまざまなものに守られるようにはなったが、「大変さ」の総量のようなものは変わっていないんじゃないかナ。 何が起こるかわからない、という「偶有性」や、あれこれと工夫を重ねなければならぬ、というその必要性はきっと変わっていない≫
 茂木健一郎氏の最近のブログの中に以上のような書き込みがあった。 それで昔のことを出来事を思い出した。

 人間以外の虫や動物などは、ある時フト自身の死について思いをめぐらしたり、いつか自らが死を迎えることを思って恐怖することなどないだろう。
 われわれ人間にはその生命は何時か終わることを知っている。 それはたんに肉体の死ということだけで済まされないものを思い入れを抱く。 人間の死についてのすべての問題がそこに隠されているような気がする。  
 人間についてはやはり問題は自我である。 心理学者の岸田秀氏はそのことを分かりやすく<人間は本能の壊れた生き物である>という論を展開している。 
 本能が壊れているということは、ある時点から人間は本能で生きるのを止め、自己意識を持ち、その意識からあらゆる幻想を生み出しそれに基づいて行動を始めたということである。  
 自我の誕生である。 また、その自我をこれもまた人が考え出した時間というものの中に置くことにしたのである。 その時点から人には過去と未来という幻想を持つことになった。(ちなみに、他の生物、たとえば犬は猫には過去も未来もなく、ただただ現在である今がダラダラとあるだけだろうと思う) 人は自分が時間の中のある時点で生まれ、そしてある時点で死ぬことを知ることになった。 その前にも時間が続いていたし、その後も時間が続くことを知った。 すなわり生命は何時か失われること(自分の死)を知ってしまったのである。 だが、どうしてもそれが許せない・・・というより、死によって自分が無に帰することが受け入れられない矛盾にさいなまれることになった。 しかし事実は動かしようもなくそうなのである。 そこで、あらゆることすべてを知ることを望むようになった。 つまり時間の始まりからその終わりのすべてを完璧に知ることをである。 たとえばそれは聖書の世界であるにせよ、科学の世界であるにせよ、すべての説明を尽くして偶有性をついに必然にすることなのであろう。 近年科学の発達で、宇宙の誕生から始まり、太陽系の成り立ち、地球上の生命の発生、その進化、現人類の誕生、歴史の始まりなどの過去から始まり、DNA遺伝子の解明により人間の成り立ち、人の心理や脳の仕組みなどなどその謎をとことん知りたい・・・その欲求を今や誰も止めようがなくなってしまった。 すべてを知り、永遠と完璧を手にして、その必然の中で人は初めて自分の死を安心してむかい入れることが出来るだろうことを夢見ているような気がする。