今日退院

 抗がん剤ベルケイドと併用して飲んでいるデカドロン(ステロイド)が効いているというのか、相変わらず夜よく眠れない日が続いている。 データー的には採血の結果、血小板の値が下がって来ている。 どうやら骨髄の活動の抑制が現われて来ているからとのことらしい。 だが、白血球や赤血球、ヘモグロビン値などは今のところさほど低下していない。
 それに感覚的には味覚がここへ来てかなり狂ってきている。 塩辛味が極端に感じられないのだ。 ご飯に塩昆布をたっぷり載せたり、梅干しを二、三個食べても少しも塩辛くもなんともないのだ。 まあこれは少々我慢すればすむ話であるが・・・味気ないとはまさにこのことである。
 今日もまた、抗がん剤ベルケイドの点滴が入る。 その後、待ちに待った、退院だ。 帰り道、明石市魚の棚商店街に立ち寄って、少し珍しい魚や野菜を買って帰ろう。

 今日も死についてもう少し書く。 とりあえず先日書いた山田風太郎の語ったというちゃんとした言葉を記しておく。
 ≪この地上で無限の虫たちが草葉の陰で死んでいくが、実は自分だってその虫ケラの一匹と同様なのである。 自身という個体の永遠の消滅とか、人間のプライドとか、大げさに特別なものと思わぬほうが良い。 死に場所が何処であろうと、そこが草葉の世界だと思えば良い。そして今…虫の一匹が死んで往くだけだと考えた方が、素直に安心立命の境地に達せられるだろう≫
 これについて一言加えておくなら、死についてのこの風太郎の言葉は、宗教的にいえば自己の欲望や煩悩の囚われから離脱する小乗仏教的な悟りや解脱の境地に近いものが感じられる。 人、誰もが皆こう云う風には悟れないだろうが、まぎれもないある種の死を捉える覚悟の正しさを語っていることは間違いないような気がする。

 <自分>あるいは<わたし>。代わりのきかないこの<わたし>という特異性、あるいは単独性・・・かけがえのないわたしが死んで無くなってしまう?・・・とは、そもそもどういうことなのだろうか?
  自分とはたんに息をしている存在であるだけでなく、また生きていることを意識し、無意識している総体で、すなわち自我であって、それまでの生きてきた蓄積された記憶の総和みたいなもの、ひっくるめたものが自分という人間なのだが・・・、この<自分>にとって<自分>、他の誰かにとって特異な何ものである<自分>という存在、それはどうなるのか・・・ 
 また<死に様というのは生き様である>とも言われる。 その人の死はその人がどう生きたかを表し、同じように、その人がどう生きたかが、すなわちどのように死を迎えるかに現われるとも・・・
 その人としての人格の同一性(アイデンティティ)とは「自分が何者であるかを自分に語って聞かせるストーリィ」であるという言い方もされる。  
 しかし、あると思っている自分、語ってみせる自分が・・・はたして自分にとってしっくりいく自分だろうか…語っても語っても語り切れない、というより、語る後からこぼれて行ってしまう自分   あると思っている自分の・・・私の・・・最後に一体何が残っているというのだ・・・虚しさ、空虚さに囚われる

  ボブ・ディランの曲から「天国への扉」Knockin' On Heaven's Door(壺齋散人による歌詞の日本語訳)を載せておく。

  ママ このバッジをはずしてよ
  もう役に立たないから
  目の前が暗くて 何も見えない
  天国の扉を叩いてる気分

  ノック ノック 天国への扉を
  ノック ノック 天国への扉を
  ノック ノック 天国への扉を
  ノック ノック 天国への扉を

  ママ このガンを埋めといて
  もう撃つことはないから
  真っ黒な雲が垂れ下がってきて
  天国の扉を叩いてる気分

  ノック ノック 天国への扉を
  ノック ノック 天国への扉を
  ノック ノック 天国への扉を
  ノック ノック 天国への扉を

 1973年の映画 "Pat Garrett and Billy the Kid" のために、ボブ・ディランの作った曲で、歌の内容は死に行く保安官ギャレットの最後の言葉をテーマにしたものである。 歌詞の中で出てくるバッジとかガン(銃)は保安官ギャレットという存在、あるいは彼の人間としてのアイディンティを支えていた象徴的なモノとして表現され唄われているのだろうが、どこかむなしい・・・

 You tube http://www.youtube.com/watch?v=CcLSwtogvP8 でこの曲が聴ける。 

 短いが<Knock, knock, knockin' on heaven's door>のリフレーンが印象に残る曲である。