宮本百合子 『伸子』

 宮本百合子の駄メンズウォーカーというか、男運のなさ。 まわりからさげすまれている相手とか、虐げられている男、それはそれなりの理由があってのことなのだが、あえてそのような者へ関心が強く、いったん惹かれてしまうとまわりが見えないくらい打ち込む・・・と云えば聞こえは好いようなのが、どちらかと言えば・・・その人の不運さだけが彼女の中にクローズアップされてしまい、それ以外の全体像が見えなくなってしまうような資質のようなものがある。 彼女は留学先のアメリカで20歳で15歳年上の男と結婚したのだが、翌年日本に帰ってから彼女の家族と上手く付き合えない夫と徐々に不和になっていく。

 以下は宮本百合子の『伸子』の中の一場面、夫の友人横田が頼み事があって訪ねて来た時に、彼女が家に上げて待って貰っていた時の話であるが・・・
 《佃は、彼女の友達が来ても、おそらく唯の一度もと云ってよいくらい、愉快な相手となった例がなかった。彼が席に現れると来た人は帰り支度をする。女の人でも、それは同じであった。今も、彼は明らかに心穏やかではないのだ。――不思議な、伸子に責任がない理由で、それをまともに表さず、親切らしいお為ごかしの云い方を、またしてもする。彼女はいきなり突き飛ばすように、「ちっとも邪魔じゃなかってよ、面白くてよかったわ」と憎らしく口答えをした。佃は、反感を沈黙に表して着物を着替えに行った。伸子は、愛情からでなく、腹立たしさ、厭さ、憎らしさ、それらの感情で相手から離れられず、自分も佃の後ろをついていった。本当は横田に対して彼女の心持はもっと複雑なのであった。彼が、しきりに机のほうばかりを気にするのや、妙にききたがりのようなところがあるのなど、彼女は好きでなかった。それでも、夫のそういう口の利き方が、伸子の平静を奪った。伸子がいるのを知りながら、知らないように洋服をぬぎ、それを衣装ダンスにかけている佃の、強情そうに太い耳の後ろの骨を見ていると、彼女は、盲目的に衝動がこみ上げてくるのを感じた。ああ、この平気そうな様子!いじめて、いじめて、本音を吐くまで参らせられたら、どんなにすっとするだろう。こんな済ました彼でない彼、こんなぬらりくらりした彼でない彼、そんな彼が見たい!その彼がほしい!――しぶとく、叩きのめされても、ここは退かないぞ。猛々しい情熱で、伸子は心がくらんだ。相打つ烈しい二つの力を自分の中に感じ、裂けそうであった。どこかで、熱心に、やめたほうがいい、さあ、あっちに行こうと進めるものがある。それを見向きもせず、手を振り払って、ひたむきに、ひたむきに、喧嘩したがり、食って掛かりたがっているもうひとつのもの。自分も彼も粉々にし、ざま見ろと叫びたいほど暴々しさ。――佃は着替えを済ますと、彼一流の利口さで、口もきかず、振り返りもせず、納戸を去った。伸子は、急に名状しがたい空気を感じた。自分と彼とに対する悲しみが彼女を圧倒した。伸子はそこに立ったまますすり泣いた。》

 まだ、この頃は上手くかみ合わない夫との関係に腹立たしさや、もどかしさで後を追いかけて行きながら涙を流していた。 作品の中の夫である佃はこの頃、あなたが何をしても、何を云おうが僕はだだ、あなたを愛しているから許します・・・と最後はこのように同じことを繰り返し云うだけである。
 男のお前が好きなんだとか、愛してるんだ、と云うのは突き詰めれば、もちろんこんなふうに書けば実も蓋もないのは承知であえて書くのだが <まだお前としたいんだ> と云うことである。 もちろん分かれたくないないという事の中には、世間体とか男の体面とかもかなりの部分あるのだろうが・・・どのように体裁よく言い包めても煎じ詰めれば男の本音はそこにしかないと思っているが・・・

 《佃はいやな顔をして黙り、こちら向いていた顔を机のほうにねじった。行ってもよくって? 或いは、ね、いいでせう? と自分が云うのを待っている夫の期待を感じたが、伸子は意識して沈黙をまもった。伸子の心には、捨て身になった結果生じた余裕のようなものがあるのであった。 暫らくして佃が露骨に喧嘩っぽい調子で詰問した。
 「――気を換えに行くんですか、それとも別れるために行くんですか・・・こちらにも都合があるから、聞かせて下さい」 語気は激しいようであったが、それを本気で佃が云っているのではないことを伸子は直感した。これまで、いつも自分が間抜けに佃の云う言葉を最大限に受け、その場で決着をつけようとしたため失敗ばかりした。伸子はそれに気づき、妙な笑いを浮かべながら逆に訊いた。 「あなたはどうお思いになるの?」 佃は、自分からはどちらにも見当をつける冒険を敢えてしきれず、憎しみをこめて横目で伸子をにらんだ。その顔を見ると恐怖の代わり、彼女自身をおどろかして、切れ切れな軽い意地悪な笑いが勃発した。彼女は毒々しいところのある優しい声でゆっくり云った。 「憎らしい?・・・」 佃は体のどこかを突き刺されたような恐ろしい表情をした。夫の苦しみが伸子の魂に炒りついた。ああ、彼は苦しいのだ、苦しいのだ。・・・しかし伸子は夫と自分とを刻む苦痛に酔ったようになって、口許に凍った微笑を漂わせながら、さも好いことでも告げるように、一言一言はっきり、 「私も憎らしくって憎らしくって堪らないのよ、あなたが・・・食われているような心持」と囁いた。むせ返るように、佃に対する憎悪と自己嫌悪がこみあげて来た。伸子は目の前が暗くなるような心持で部屋を去った。》

 どうよ〜このド迫力は・・・何も言うこともないよ(笑)