宮本百合子

 秋の連休前に宮本百合子の作品「伸子」などを読んでいたのだが、連休に息子や娘が来ていて感想を書くのが延び延びになっていた。 タイムラグがあったせいか最初の強烈なインパクトや印象はかなり薄れてしまったが、とにかく宮本百合子はすごい作家だと思った。 戦後の共産党を長く牛耳っていたあの宮本顕治の妻であったことなどもあって、いまだに評価の前に好き嫌いが激しくて、その評価は今でもあいまいなままである。 オフもあの陰険な顔の宮本の妻というだけで読むのを敬遠していた。 しかし、今回その作品を読んでみてすごい力量のある作家だと知る。 デビュー作である『貧しき人々の群れ』は彼女が17歳のときに発表した作品だが、作品としては完成度がきわめて高い。 これを読んだ坪内逍遥の強い推薦で中央公論に掲載されている。 最近も19歳で史上最年少の芥川賞受賞と騒がれた綿谷りさがいるが、その『蹴りたい背中』は悪い小説ではなかったが、彼女がその後泣かず飛ばずなのを見るにつけて作家としての力量は百合子のほうがズット上であろうと思われる。 全集の巻末にある年賦を見ると、12歳で日本の古典である、竹取、平家、雨月、方丈記近松西鶴などをかたっぱしに読んいるし、15歳で一葉、ワイルド、トルストイなどの作品から強い影響を受けている。 まさに早熟な文学的天才少女だったのだろうと思われる。 最高傑作は『伸子』と言われているが、これは彼女が25歳から雑誌『改造』に連載で書き始めているのだが、、彼女の20歳からの結婚から離婚に至る5年間の顛末記である。 その後ブハーリンの『史的唯物論』などを読んで共産主義運動に興味を持ち、ロシア・ヨーロッパに数年間滞在して31歳の時に日本に帰ってきている。 その翌年に宮本顕治と知り合い同棲に入るのだが、わずか数ヶ月の蜜月の後、左翼運動へのかかわりで彼女は検挙され、逃げた顕治は地下へ潜る。 そのころに書かれた作品で当時は発表できず死後に発表された『刻々』という作品があるが、その中で 《留置所に戻り、檻の内を歩きながら、自分は深い複雑な考えに捕らわれ、時の経つのを忘れた。「働く婦人」のどはもっともっと目に見えるように支配階級のこういう陰謀を摘発し、赤松らの憎むべき役割の撃破についてアジプロしなければならぬ、そう思うのであった。》 これまでの瑞々しい新鮮な感覚で捉えられていた現実が、紋切り型思考で切り捨ててしまう文章に生まれ変わってしまっている。 さらに驚くべきことだが作品の中で 《職場の特殊性をすべて争議団側に有利なように科学的に利用している点とともに、革命的指導による極めて新しいストライキの型を示すものであった。交通産業上に歴史的なばかりでなく、これまで日本にあったストライキから見ても、溌剌とした闘争力、計画性。科学的なやりかたで、広い影響をあたえた》 などというおおよそそれまでの彼女の作からは考えられないような、つまらないプロパガンダな文章が真面目に挟んであったりするのを見るとあきれ返る。
 その文学的力量に見合うことなく女としての宮本百合子は不運な女性だったと思う。 アメリカ留学中に知り合った周囲から置き去りにされたようなこれまた陰険そうな男に惚れ、廻りからの反対を押し切って二十歳で15歳年上のその男と結婚したのだが、その五年後に破局、離婚。 その六年後これまた共産党員である宮本顕治と結婚・・・数ヶ月の蜜月の後彼女は検挙・拘留の繰り返しの生活。地下に潜った顕治はその後逮捕される。 その容疑は縁の下から発見された同志である共産党員の小畑某を警察のスパイとみなしてリンチして殺した容疑である。 戦後十数年ぶりに特赦によって網走刑務所から釈放された顕治との生活の期間はわずかで、顕治は十歳年上の百合子からその秘書であった若い大森寿恵子に乗り換え同棲している。 このことは当時の顕治の周囲にいた複数の同僚などから指摘があるにもかかわらず、共産党はいまだにマル秘扱いにしている。