たい子と芙美子

 先に書いた平林たい子の『砂漠の花』という作品の中に、とうとうお金がなくなって野村夫妻の部屋に二、三日世話になるという箇所がある。 野村夫妻の妻にあたる人は林芙美子のことである。

 ≪野村夫妻の部屋に、二三日世話になって、彼女が上手に漬けた漬物や、所帯なれしたとりのもつと玉葱との煮つけなどをご馳走になった。
 いよいよ金策のために私たちが、その室を出てゆこうとしたとき、芙美子は、うしろから歩いてゆく私の背中をぽんとたたいてささやいた。
 「なにもそんなに首ったけになっておぼれこむことはないのよ。一円の買物をしたら、一円二十銭だと言って、二十銭だけは自分のふところに入れるくらいの気持ちがなくちゃ、女房という役は、とてもつとまるもんじゃないわ。」 
 私は笑ってうなずいたが、そんなことでも、彼女と自分の違いを感じた。私は日常の夫婦としての行動では絶対に石田にたいして嘘やごまかしはできない。ありったけのものをささげて、表と裏とをももたずに暮らしたいという、素朴な男女の結びつきの理想を実行しようとしていた。しかし、そういう妻の情熱をかたむける相手の夫としての石田には、たくさんの不足があった。
 その不平がいつも心の片隅で、もう一人の私としての別行動をとろうとしている。私の気持ちはいつも不満を抱いて、二つに裂けていた。
 ところが彼女は、そんな宵越しの不平をもたずに、小遣いをごまかしてとるといったことで、さばさばと一つ一つの不満を決済しているのである。
 外に出てみると、けっきょく銚子を出たときのみじめったらしい二人の姿が、そのまま続いていた。芙美子のはずみきった生活の気分にあおられて、急に視野が広くなった気がしたが、外へ出てみると寸分以前とかわっていない灰色の現実だった。それに彼女の簡単に事を片づけていく性格としては、ひょっとすれば、いまごろは野村と二人で、 「ぐずな人たちね。あんな人と話していたら気がめいちゃうわ、やれやれ大変なお客様だったな。」 とでも言っていはしないかという気もまわしていた。とにかく、彼女は、あらゆる意味でえらい女である。≫
 林芙美子の日常的な姿が上手に捉えられている。

 平林たい子は相手の男に対して日常的なところですら、自分は嘘やごまかしは出来ないと書いているが、また同じ作品の中で男女の暮らしについて以下のようなことも述べている。
 ≪女は、男と一緒に暮らすそのときから、少しずつ、なにか自分のものをけずりとって相手にあずけているいると見える。 別れようとすると、自分がそこに置いて来た無形の何かが疼いて、私を立ち去らせまいとする。≫
 たしかに平林たい子は作品の中でも過去のどうしょうもないと思われるような男にたいしても執着している。  男は自分のような重い女の荷を肩から下ろしてホッとしているに違いない・・・と思い思いしながらもまだまだ相手に執着している。

 林芙美子の作品は青空文庫でも読める。 その中の初期の作品で、放浪記のすぐ後に書かれた短編であるが、『風琴と魚の町』という尾道を舞台にした作品であるが、好きな作品である。
  http://www.aozora.gr.jp/cards/000291/files/1814_24391.html