林芙美子 「浮雲」

 林芙美子のいくつかの短編と「浮雲」を読んだ。 「浮雲」は彼女が書いた戦後の作品の中では一番の長編で、いわゆる小説らしい体裁をした小説である。 作者の視点が登場人物を俯瞰的に眺めるようなところにあり、物語の中に登場するそれぞれの人々の心理や行動を配するように記している。 いわゆる20世紀前半頃までは小説の本流として書かれていたが、今はめったにお目にかかれなくなった形式である。 大きな物語や歴史の必然的性などが信じられていることを背景に書かれた物語で、たとえそのようなものを否定するために書いていたとしても、その枠の設定の中で書かれていて、今となればそのオーソドックさがどこかうそ臭く感じる形式である。 だが、面白かった。 林芙美子の人間を見る視点の深さと書く力量が大きかったからだろうと思う。 とくに男の視点から女を見て書かれている話にこそ狂おしいほどの鋭い観察眼がある。

 「もっと、ひどく、ひどく噛んでよ」
 富岡はゆき子の指を小刻みに噛んだ。ゆき子は耐えられなくなったのか、富岡のゆすぶっている膝へ頭を伏せて、くっくっと泣いた。
 「私は、こんな女になってしまって、自分でも、判らなくなっているンです。何うかしてしまってください。どうでもしてしまって下さい・・・」
 ゆき子は泣きながら、両の手で、富岡の膝をさするながら言った。部屋の中は暗くなり始めている。賑やかな市場の叫び声が風の具合か判然りと聞こえる。富岡はゆき子の頭髪に唇をつけたが、自分の心にはそうした事が、芝居じみてむなしい事をしているように思えた。
 妻の邦子にはない。野生な女の感情が、富岡には酒を飲んだ時だけ、ぱあっと反射灯を顔に当てられたように判然りするのだった。
 「私、奥さんを見かけなければよかったわ。いい人なのね。でも、貴方の奥さんと思うと、やっぱりあの顔は憎い。私、お宅へうかがってから、何時も、あの奥さんの顔がちらちらと胸の中へ刺しに来るの・・・奥さんは、きっと、あ私の事を感じてお出でだわ。ね、おっしゃったでしょう?」
 「何も言わないよ」
 「嘘よ。私、とても、ひどい表情をして、奥さんを睨んでいたの。不思議そうに私の顔を見て、奥さんは、私の足もとから、頭のてっぺんまでじろじろ見てて、とても嫌な笑い方をしたの。たまらない君の悪い、笑い方だったわ。金歯が光ったのよ、その時ね・・・。どうして、前歯に、金なンかをはめているのかしら・・・」
 ゆき子は顔を上げて、にやにや笑いながら言った。泣いた顔が洗ったように化粧がとれて、かえって生々してみえた。額にさげた前髪が乱れて、初めて見るようななまめかしさだった。

 もうこのあたりで別れよう・・・ここで切ろうとして切れないまま、また女の生々しい魅力に引き込まれてしまう男のジクジクした性のない生理のようなものが描かれている。

 また、戦争に負けてすべてが空手形になった時の甘ったれた男たちの脆さ、醜さ、弱さ、無責任さなどなどが富岡という男に集約されて表現されている一方で、現実的に生きる女達の強さ、逞しさ、しぶとさなどもヒロインゆき子の中に対照的に描かれている。 そんな女にうまくあしらわれている、好いように翻弄されているのではないかとかんぐりから、女を捨てて逃げるとか、引き込んで心中するとかという形でしか自分を守れない情けない男の狡さなども人間模様の背景に据えて寒々と描かれている。 林芙美子はその晩年に成金趣味を批判されたと言われているが、それは最貧の生活の中から這い上がった彼女の庶民性の感覚の裏返しであろうが、そのような意味もないまま金に執着する自分自身を揶揄するように最終章では冷酷に突き放して描いている。