光陰矢のごとし

 今日から8月だが・・・昔は<光陰矢のごとし>と言われるが、若い頃は、それって何のことだ? ぐらいに思っていたが、とにかくここへ来て年々時間の経過が早くなるように感じている。
 「人が感じる月日の流れ」や「過去を振り返った際の時の流れの早さ」に対する感覚は 若い頃は遅く、 歳をとるにつれて短く早く感じるようになるというのは多くの人が実感していることである。 人が感じる主観的時間というか、時間の記憶の伸縮自在さについて、つまり<年少者にはより長く、年長者にはより短く評価されるのは何故か>について昔から多くの仮説が提出されている。
 その一つに有名なジャネーの法則といわれる説明がある。 今から100年以上前のフランスの心理学者の唱えた説である。
 それによると「10歳の子どもにとっての一年間は彼のそれまで生きてきた10分の1の長さであるのに対して、六十歳の人にとっての一年は彼が生きてきた60分の1にしかならない、だから六十歳の人にとっては一年間が短く感じるのだ」という説明である。 一見もっともらしい説明であるが、これは残念ながら正解ではない。
 その後出された説明はいろいろあるが、その中で最も説得力があるものの一つに、「感受性が豊かな子供の頃の経験は初めて経験することが多く、それは新鮮な驚きに満ちている、それでその経験の内容が新鮮で豊富でる分だけ時間が長く感じられるのである。 一方大人になるにつれ新しい感動が少なくなり、生きることが単調になってしまうので時間が早く時が過ぎるように感じる」というのがある。 この説明はかなり説得力があり 、最近でもそうだろうと信じている人が多いが、あくまでこれは推論であり、これを検証する方法はない。 

 「生物と無生物の間」を書いた福岡伸一氏によると、最近の著書「動的平衡」の中でこの問題について生物学者らしく以下のように推察している。
 当然のことながら物理的な時間の経過は老人の一年も若者の一年も時間の経過は同じである。 だが、人間の細胞の中の分子は日々入れ替わっていて、数週時間から数ヶ月で細胞は入れ替わって、新陳代謝されて細胞はまったく新しいものになっている。 年齢が若い頃ほどそのサイクルが早いのだが、その理由は若いほど細胞の新陳代謝が活発で早いからである。 チョット考えると、それじゃ若いほど時間の経過が早いのでは・・・となるのだろうが、福岡氏それは逆だと言う。 年齢が高くなって細胞が入れ替わるサイクルのスパンが長く(遅く)なると、たとえば一年間にそれは数回しか入れ替わらない。 それが若ければ代謝が早く同じ一年間に十数回入れ替わっている。 若い頃はたとえば細胞が十回入れ替わった時にようやく半年かと思える場合でも、老人の場合十回入れ替わったと思う時点ですでに一年経ってしまっているということになる。 人の時間の経過の感覚がその代謝の感覚であるとしたら、年を経る毎に時間の経過が早く感じる、という事になって、年を経る毎にそれは早く感じれるようになる(この場合若い人が半年経過したと感じた時間を、老人の場合一年経過したと感じ取る) からだと言うのだ。 つまり人間の感覚というのは脳で意識される絶対的な物理時間を感覚して生きているのではなくて、細胞の新陳代謝そのものを時間の経過の感覚として感じ取って生きているのだと言うことになる。 これも検証する手立てはないが、このほうがかなり説得力がある。