臓器移植

 臓器移植法改正案が先週7月13日に参院を通過した。
可決された法案は、先に衆院を通過したA案であって、このA案の骨子は (1)脳死を人の死とする (2)臓器の移植に年齢制限なしとする、という内容である。 緊急に提出されたA案の修正案、脳死の定義を現行法通り「移植に限り、脳死を人の死とする」とした修正案、「こども脳死臨調」で1年論議するというE案は採決されなかった。
 正直言えば個人的にはこの臓器移植法案に対してはとても戸惑っていて自分としての結論が出せないでいる。 あえて個人的な考えを言えば、どうであれ他人の臓器などを移植してまで生きたいとは思わない、となる。 でも一方にはそうしてでも生きたいという人々がいるのであり、それを手助けする医療技術が不完全ながら人類は手にしているという現実がある。 そこで一歩進めて考えると、たとえそれが他人のものでも臓器を移植して生き延びたいという人がいて、脳死になれば臓器を提供しますという人がいるのなら、臓器移植も致し方ないかな…という事になる。

 この問題についてではないが、毎度引用の内田氏が今日のブログに書いている。
≪「何か、よくない」という印象をもつのはたいていの場合かなり複雑な事態についてである。
理由のはっきりしている「よくないこと」については、端的に「よくない」と言う。
理由が自分にもよくわからないことについてのみ「何か」という限定がつく。≫

 どのような人にも生きるという基本的な権利がある、という考えがある。 これはシンプルで大変分かりやすい考え方である。
 この場でこんな話を出すのはいささか意地の悪いのだろうが・・・わが国では法によって悪質な犯罪者は死刑もやむなし、としている。 この国では大多数の人がそのように考えているからであるが、しかし、その考えの根本は、たとえ人の生きる権利も場合によっては選別されるのが当然だという考えと言い直してもよい。 そうなってくるとさらにそれを一歩進めて凶悪犯をどうせ死刑にするなら、その人を脳死状態にしてその臓器を取り出してそれを困っている人々に移植して活用すれば臓器移植を待っている人の救済にもなる・・・という考えも出てきてもおかしくない。 現在の医療技術があれば、脳への血流を止めて脳死を起し(脳死は人の死とされるのだから)、人口的な生命維持装置に接続した心臓などの臓器を生きたまま取り出すことは分けないことであろう。 さらにその臓器の移植で移植を待っている人々を救い生き延びさせることも出来るのだから・・・となる。 そんな考えもとんでもない不道徳な考えとはいえないだろう。 脳死した人の臓器はすでにそれは犯罪者だろうが良き市民だろうが脳死した人の固有のものではなくて、いってみれば臓器というモノである、という考えが臓器移植医療の基本的な考えであるだろうから。 そうなるとそうなったで、人を殺したような凶悪犯の臓器など移植してもらいたくはないという人が出て来るかもしれない。
 臓器移植法案は成立したがこの問題には考えれば考えるほど、何だかよく分からなくなるし、何かよくないなぁ・・・という思いがぬぐい切れずに残ってしまう。