河原乞食

 ようやく衆議院解散総選挙する見通しになったようだ。
 ここのところ当ブログで政治や経済に関しての時事問題にあまりふれることがなかった。 この間言いたいことがまったくなかったわけではないが、それをわざわざ文章にまでして書く気にならなかった。 世の流れにどこか空虚で虚しいものを感じていた。 経済不況(ある意味では今のこの状態が普通の状態なのだと思っているのだが)の中で新しい方向を打ち出せないまま迷走し続けていた政治の責任が大きい。
 この国の舵取りを任せられている政治家、総理大臣をはじめ各閣僚、与党野党だけでなく国会議員の自覚のなさや、危機感の欠如していいる認識の為せる業が大きかったように思う。 そんな中にあって元タレント的な知事などの発言だけが面白おかしくマスコミは取り上げていた。
 東国原宮崎県知事はことのほか地元の県職員のウケが良いらしい。 本人は宣伝マンよろしく補助金獲得や県産品売り込みに各地を飛び回っていて、県政の案件のすべては県職員にほぼ丸投げ状態だということが一番の大きな理由らしい。
 橋下大阪府知事は膨れ上がった府の負債を減らすことに一生懸命で、享保の改革よろしくただただ超緊縮財政体制を言い、府職員の給与を減らすことを自らの政治課題としているようである。 緊縮財政政策をウリにしているのだが、多分これは府職員一同の受けは悪いだろう。
 石原都知事はバブルの頃に大手企業が本社を東京に集中させたお陰で、大手企業の景気回復とともに何もしないでも税収が膨らんだ。 その勢いで都立銀行とか築地市場の移転、オリンピック誘致などの大型プロジェクトを派手に打ち上げた。 しかしどれもこれも今は大きな負債だけを残して行き詰ってしまっているのが現状のようだ。 今回の都議会議員選挙で与党の自民党が敗北したことを、麻生政権の不人気の批判のツケを都議会で払わされたと発言しているが、都政での失政がなければ国政がどうであろうと与党の都議員の惨敗はなかっただろう。
 それぞれの知事の各者各様の対応だが、どれが良いのか悪いのかその結果の良し悪しは軽々と即断できない。 結果はおのずから数年を経て間違いなく各県政に現れてくるだろう。

 話は飛ぶが、この国では少し前まで役者や芸人のことを河原乞食と呼んでいたものである。
 持つべき家や家族もなく、ただただその日々の暮らしを芸を売ることで過ごしている者たちへの侮蔑を込めての蔑称である。 しかし、持つべき家族も家もない彼らはそれだからこそ彼らの存在そのものが、逆に彼らの強みとなることもあった。 何事にも縛られることのないその生き方の自由さ、気軽さゆえである。 そのような存在というか、身軽な立場そのものが、多くのしがらみに縛られながら生きていかざるを得ない在家者への痛烈な批判と成り得ていたからである。 人々がそんな彼らを時として支持したり祭り上げるのは、既存の行政の司達が自己本位に驕り堕落していると見て取って腹を立てている時だけである。 そんな時に司達を批判するために、対極にある河原者の彼らを持ち上げる。 そんな当たり前で単純なことを忘れてしまい、芸人風情が一端のことを言い出すと人々はたちまち白けてあちらを向いてしまう。 どうやらいったん上へと祭り上げられてチヤホヤされてしまうと、そんな些細な人々の機知もたちまち見えなくなってしまうようである。