親と子

 離婚の経験がある友人が彼の一人息子と今度数年ぶりに逢うことになったよ、と電話の中で話していた。 父親が息子と、あるいは息子が父親と会った時に、二人は一体何を話すのだろう? と思った。

 オフは両親のもとで育っていない。 小学生の頃、はっきりと何年生だったかはっきり覚えていないのだが、おそらく3年生から5年生の間だったろうと思うのだが一度父親に逢ったことがある。 その時父と初めて顔を合わせて、夕刻だったが小学校のグランドへ二人で歩いて行った。 そしてグランドの隅にあった鉄棒のところへ行った。 一番背の高い鉄棒に向ったので、父が逆上がりをして見せるのではないかと一瞬、エエッ・・・と思ったが、父は鉄棒の木枠に背中を持たせ掛けただけだった。 それまで二人は無口だったのだが、そこで父が口を開いた。 その時父は突然「人間はどんな時でも希望を持って生きるのが大切だ」、と言うようなことを言ったと思う。 子供だったオフだが、空を飛んでいるようなそのあまりにも現実離れした言葉に、ビックリすると同時に少しガッカリしたことを覚えている。 そして、なんかこの人の言うことはどこかウソ臭くて、どこかダメだなぁ・・・と子供にしてはとんでもなく恐ろしいことを思った。 しかしそれはその時本当にそう思ったのか、後から自分の記憶に後付で付け加えたのかはっきりしない。 記憶はあとから自分に都合よく容易に書き換えられるものだからだが・・・。 その意味からいけば記憶とはフィクションであると言えるだろうし、人は作り上げたウソの物語、すなわちフィクションの中で生きているとも言える。 
 さてそれはそれとして、父が何か言う時にオフは心の片隅で父から何かの説明がなされるのだろうと期待していたような気がする。 あるいはさらに説明を踏まえて謝罪ののような言葉を期待していたかも知れない。 だが一切の説明は省かれて、希望を持て、などという言って見れば自分をカッコに括ってしまって空を飛ぶような抽象的な言葉だけが飛び出したのを、子供心にも感覚的に受け入れられなかったのだろうと思う。
 しかし、今にして思えば、この時自分が父の立場であれば、何を語ったのだろうか、と考えていけば・・・親として子供に向ってあらためて何かを言うことがきわめて難しいことなのだなぁと思う。 そして最後は逃げることなくその時々の気持ちを正直に述べるしかないのだろうとも思う。 少なくとも物心が付いているなら大人が子供にむかって一段高いところから言い聞かせるのではなくて、子供も一人の人格として扱ったほうがよいのは当然のことなのだろう。