不快と快

 先日、かっての東映の集団抗争時代劇「十三人の刺客」をはじめTVの必殺シリーズなどで活躍していた映画監督工藤栄一の映画「野獣刑事(デカ)」を見た。 その中で 石田あゆみが殴られ、蹴られながらもなけなしの金を夫に貢ぐことで従順な妻を演じる女、夫の泉谷しげるはその金で昼間からシャブを打ちパチンコしている男で、まさにクサレ夫婦の典型的な男女を演じていた。 さらに泉谷しげるはシャブ(覚せい剤)中毒になって妄想を見てある日突然暴れ出すというお決まりのコースをたどり、物語は最後の自滅へとなだれ込む。
 先日から何となくこだわっている大麻や麻薬の問題にふれてみる。 普通の暮らしをしている人にとって麻薬とかシャブの問題は、ほぼ生涯縁のない世界のことであるだろうし、もちろんそれで良いのである。 しかし、なぜに恐ろしいと分かっているはずの麻薬にある種の人々は次から次へとひきもきらず関わってしまうのだろう? 麻薬などに手を出す人は、ごく普通の人とは違う異種の人なのだろうか? 両者の間には何か越えられないような一線があるのだろうか? 普通なら<そんなものはあるはずがない>と答えるべきなのだろうが、<じつは、それはある>と答えたい気がしている。
 オフの前の妻は若い頃からいわゆる頭痛持ちで、(今にして思うと偏頭痛だっと思うが・・・) 頻繁にセデス、現在のセデスとは成分が違っているて数錠飲むと軽くラリルせいか、脳圧が和らいで頭痛も誤魔化される感じだった。 それが頻繁なので「少し飲み過ぎじゃないの」と忠告すると、「頭が痛くて顔をしかめているより、薬を飲んででも笑顔になっている方がマシでしょう」と答えが返ってきた。 そう言われると、う〜ん、少し違うと思うが、まあそれもありかなぁ・・・などと思ったりした。 その後、彼女が後にうつ病になり、その流れでキッチンドリンカーになった。 「今のこの気分の落ち込みから何でもいいから逃れたいという気持ちからでそちらへ走るというのは意外とよくあるケースなんですよ」 と困り顔をしながら精神科医も答えた。 その事について二人で何度か話し合ったことがある。 たいてい彼女は最後にエキサイトして、「今のこの気分から逃れるためなら、悪いと分かっていても麻薬や覚せい剤でもあれば、あればすぐにでも飲みたいわ」 と答えた。 中毒が何か分かっていて、あえてそう言うのであるからそれ以上答えようがない・・・ そんな時にも心を入れ替えて身体をたいせつにしましょう、という正しいメッセージを発することの出来る人もいるだろうが、オフはそんな人ではない・・・・黙り込んでしまうしかなかった。 心の中に同じように何かを抱えていると言えばいいのか・・・ 若い頃好奇心から一時ハイミナ−ルという睡眠薬を飲んで終始ラツっていたことがあるが、中毒まで行かなかったのはどこかで自制心が働いていたからだったと思うが・・・
 
 バブルの頃だったか、ある時期から今時の若者の間で援助交際と名前を替えた売春が時の話題になり、ピアスやタトウや自傷行為などなどが話題になり・・・その流れはついには集団的な自殺に至るまでエスカレートしていった。  この問題は人が麻薬や覚せい剤向精神薬などを求めるこころとどこかで繋がっているという感じがぬぐえないなぁ・・・と感じていた。
 生命の生命たる原理は最もプリミティブなところでは、快と不快の二分法でしかないといえるだろうが、どういう訳か人の脳の中でその原理が裏返ってしまうということが起きる。 「野獣刑事」の中のクサレ夫婦の関係が、そのまま一人の人間の中で「身体」と「脳」の関係として成り立っていると見なせば、これらの問題はよく見えてくるような気がする。 肉体を売買したり、自傷したり、向精神物質の摂取、はては自死することで破壊されのは言うまでもなく自分の肉体であり、すなわち<身体>である。 そしてそれらの一連の行為を命じたり、仕切っているのは他でもない自らの<脳>なのである。 脳が自らの肉体を傷つける・・・それは普通に生きる人々なら考えられない愚かで異常な行為である。 そこには健全で常識的な道理や理性の世界を越えてしまったアブノーマルな感覚が潜んでいる。 そのアブノーマルさの因って来るところは、身体が不快と感じる感覚を脳が快感と感じてしまっているという感覚の裏返りである。
 そしてその裏返りがある種の人々にとっては、自己の肉体的な不快を加えれば加えるほど、それが快感に結びつくという関係にまでなっている。 痛めつければ痛めつけるほど肉体は悲痛な悲鳴をあげ、脳はその嘆き声を聞きながら闇に響く高らかな哄笑をあげる・・・悲痛な悲鳴が高ければ高いほどそれを快感として受け取る、まさに普通では理解しがたい異次元の世界なのである。 身体はその生命の最後の一滴まで搾り取られ、脳はそれによって快楽を増大させる。 だが、さらに恐ろしいことには、しょせん脳もまた肉体の一部であることには変りなく、最後はその脳さえもボロボロになってしまうという結末で終了する。 つまり人が生み出した幻想によって身体のすべてがが滅ばされてしまってようやくゲームオーバーとなる、と言い換えた方が良いだろう。