皆既日食

 故忌野清志郎タイマーズのテーマという歌があったよ。  http://www.youtube.com/watch?v=ouxZSov9YwM&feature=related
 しかし、まあまあヘルメッとまで被って、清志郎君もやるよねぇ。 最後の、ざまぁみやがれ!がとくに良かったよ(笑)

 さて、話は変わって、今年の7月22日には日食が起こるといわれている。日本では、全国で部分日食を観察することができるということだが、奄美大島北部、トカラ列島屋久島、種子島南部などでは、皆既日食を観察することができるらしいのだ。http://www.nao.ac.jp/phenomena/20090722/index.html
 
 現代では、日蝕や月蝕に対しては天文学的な説明がなされていいて、われわれはそれを科学的な知識としてそのことを知っている。 つまり、日食というのは太陽と月と地球が一直線に並んで、昼間の太陽が月に隠れてしまうという天文学的なショウであると・・・そのショウは皆既食の最中には太陽が消えてしまってあたりが暗くなって、真っ黒な太陽の周りにコロナだけが輝く現象が見られる・・・などと説明されている。
 しかし天文学的な説明だけでは説明できないこともいろいろ報告さている。 つまり実際に日食や月食を体験する人の中には精神に変調を来たしたりする人もいると言われているのだ。 6分の皆既食が見られるというトカラ列島へのツアーは、バカ高い値段が付いていると聞く。 天文学のマニアとは違う人々、どうやら世の中には「日食マニア」という人々がいて、一度日食を体験して以来すっかりその虜になって、お金に糸目を付けず世界中の日食の追いかけをしていて、日食のある所々でお祭り騒ぎのようなことをやっていると言う。 う〜ん、健全な麻薬のようなもの?
 その日食をハワイで体験した本人が以下のようにブログに書いている。

 ≪1991年、ハワイ島で皆既日蝕を体験した。日蝕は「見る」というのが正しいのかも知れないが、しかしそれはやはり圧倒的な「体験」だった。
その日はあいにく空一面に厚い雲がかかっていた。これでは日蝕ショーの目玉である美しいコロナの輪を見ることはできない。
「中国には曇天の中秋の名月を『無月』と呼んで、見えない月を想像の目で見て楽しむという習いもあるし、想像の目を使って『無蝕』でも楽しむか」などと強がっていた。
しかし、そんな懸念は不要だった。
雲に遮られて見えないはずなのに、日蝕は厳かに、そして確実に訪れた。
蝕の刻が近づいたことは鳥たちの鳴き声でわかった。
鳥たちが急に、そして一斉に鳴き出したのだ。何か凶々しいものの到来を怖れるような切迫した鳴き声だ。数十秒もそれが続いただろうか。今度は急にすべての鳥の声が止み、不気味な静謐が訪れた。
息苦しいほどの静寂の中、波の音だけが響く。その波濤はせり上がるように音量を増していく。腹の底を揺るがすような響きにひたっているうちに、やがて静かに闇が押し寄せてきた。
まだ朝のはずだ。しかし、遠くの山稜を見ると、地面を裂いて吹き出した溶岩が蛇の紅い舌のようにちょろちょろとその姿を踊らせて闇が訪れたのを示している。波の音もいつしか静まっていた。

その場にいた人々はみな無言で、そして酔ったような顔をしていた。かつて体験したことのなかった種類の闇と静謐とがひとりひとりを包んでいた。
やがてその闇は、鳥の鳴き声の再開とともに薄らいでいき、薄墨を流したような闇を最後に本来の明るさが戻ってきたが、しかしその不思議な酔いは体に残った。
日蝕は実は見るものではなく、聞くものだった。鳥の鳴き声、波の音、そして無音の静謐、それらを全身に聞くことが日蝕体験だったのである。≫
 
 どうやら日蝕とは見るものではなくて、「聴く」もののようだ。 そのためには最低限まわりの静謐が必須条件になってくる。 みんなでお祭りのように騒ぎながら、口をアングリ開けて日蝕メガネで空を眺めている場には決して立ち会わない方がよいだろう。 古代、さまざまな自然現象は神の業と思われていたが、その中でも日蝕や月蝕は重要な意味を持っていただろうことが予想できる。、わが国の天照大神の天岩戸の神話も日蝕のことではないかと言う人もいるらしいが、このブログを読むかぎりではどうも違うような気がする。 『古事記』によると「さ蠅なす満ち、万の妖悉に発る」とあって、当時さまざまな災いが起こったことが想定される。 それにしてもオフも、行って日食を直に聴く体験したくなった・・・