クロニクルとねじまき鳥

 昨日は時間がなかったので、尻切れトンボのような日記を書いたが、日本には大麻を所持していたり、栽培したりすると罰せられる法律があって、それによって名古屋の校長は逮捕された。 だが大麻を栽培していた校長はどんな悪をなしたんだろうか? 法とはそのことで人々社会生活に迷惑や損なうことが起きて初め法は登場するので、法によって人の自由を制限するというのは最後の最後の手段であるはずである。 日本の法は欧米のように大麻を売って儲けることを禁じている訳ではない。 大麻を所持しているというだけで逮捕され罰せられるという法である。 誰に迷惑をかけたわけでもなくても、マスコミななどに叩かれ退学や退職などの厳しい社会的な制裁を受けることが当然視されている。 何か割り切れないものを感じる。 この種の事件では法というもののあり方についてついつい考えてしまう。

 村上春樹の「1Q84」が発売されてすでに100万部を販売したとのニュースがあった。 オフの覗いているいくつかのブログでもボチボチと感想が載せられてきている。 アマゾンで注文してあるのだがまだ手元に届かない。 感想に関しては意識的に読まないようにしている。
 その代わりというわけではないが、少し気になることがあって昨日からその村上氏の「ねじまき鳥クロニクル」の第三部を読み返している。 この本が売り出されたのは94年だから、これはもうすでに15年前の作品ということになる。 この作品の中に<28・ねじまき鳥クロニクル#8>という小タイトルの章があり、その内容は1945年8月新京動物園で猛獣が軍の命令で兵隊に射殺された話の続きで、満州国士官学校から脱走した生徒の処刑が行なわれ、死体が穴に埋められたという内容の話である。 その章に続くシナモンの<29・ミッシング・リンク>という章がある。 この部分の中に当作品を創作することになったモチーフに作者自身が最も近づいて書いている記述があるので、その中から一部抜粋した。

 ≪しかしそもそもなぜシナモンはこの物語を作り上げたのだろう。なぜ彼はそれに物語という体裁を与えなくてはならなかったのだろう?なぜその物語郡は「年代記(クロニクル)」というタイトルを与えらなくてはならなかったのだろう?僕は仮縫い室のソファーに座って、デザイン用の色鉛筆を手の中でくるくるまわしながら考えてみた。
 その答えを出すには、そこにある物語すべてを読まなくてはならないだろう。でも#8のひとつを読んだだけで、漠然とではあるけれど僕は、シナモンがそこに求めているものを推測することができた。おそらくシナモンは自分という人間の存在理由を真剣に探しているのだ。彼はそれを自分がまだ生まれる以前に遡って探索していたのに違いない。
 そのためには自分の手の届かないいくつかの過去の空白を埋める必要がある。そこで彼は物語を自分の手で作り上げることで、そのミッシング・リンクを充当しようとしたのだ。母親から繰り返し聞かされたひとつの物語を足掛かりにして、シナモンはそこからさらに物語を派生させ、謎に包まれた祖父の姿に新たな設定の中に再創造しようとした。そして物語の基本的なスタイルを、彼は母親の物語からそのまま受け継いでいた。それは事実は真実ではないかもしれないし、真実は事実でないかもしれないということだ。おそらく物語のどの部分が事実でどの部分が事実でないということは、シナモンにとってはそれほど重要な問題でなかったはずだ。彼にとって重要なことは、彼の祖父がそこで何をしたかでなくて、何をしたはずかなのだ。そして彼はその話を有効に物語るとき、彼は同時にそれを知ることになる。≫

 この物語の中では、戦前にモンゴルで起きたノモンハン事件に先行する頃からこれでもかこれでもかというように血なまぐさい事件が年代記のように幾つも幾つも挿入されている。 それらの凄惨な事件を最後に集約するように闇の中である戦い、殺戮が行なわれるという大きな仕組みがなされている。 以上の部分の後に以下の文章がさらに続いていていて、人々の口頭伝承ともいえる数々の物語すなわちクロニクルが、ねじまき鳥と呼ばれる主人公とドッキングして受け継がれることが暗示されている

 ≪そしてその物語は「ねじまき鳥」という言葉をキーワードとして、年代記的に(あるいは非年代記的に)この現在まで至っているのに違いない。しかし「ねじまき鳥」という言葉はシナモンが作り上げたものではない。それは以前に青山のレストランで,母親のナツメグが僕に語った物語の中で無意識に口にした言葉だった。そしてその時点においては、ナツメグはまだ僕が「ねじまき鳥」と呼ばれていることを知らなかったはずなのだ。とすれば、僕と彼らの物語は偶然の一致によって結びつけられているということになる。
 でも僕は確信は持てない。ナツメグは僕が「ねじまき鳥」と呼ばれていることを何かの事情ですでに承知していたのかもしれない。そしてその言葉が無意識のレベルで彼女の(あるいは親子二人の共有する)物語に作用し、侵食していたのかもしれない。それはひとつのかたちに固定された物語ではなく、口頭伝承のように変化を受けつけながら増殖し、かたちを変えつつ存在しつづける物語なのかもしれない。 
 しかしそれが偶然の一致であるにせよないにせよ、シナモンの物語では「ねじまき鳥」という存在が、大きな力を持っていた。人々はとくべつな人間にしか聞こえない鳥の声によって導かれ、避けがたい破滅へ向った。そこでは、獣医が終始一貫して感じ続けていたように、人間の自由意志などというものは無力だった。彼らは人形が背中のねじを巻かれてテーブルの上に置かれたみたいに選択の余地のない行為に従事し、選択の余地のない方向に進まされた。その声の聞こえる範囲にいたほとんどの人々が激しく損なわれ、失われた。多くの人々が死んでいった。彼らはそのままテーブルの縁から下にこぼれ落ちていった。≫ 
 われわれはほぼ何の関係もない偶然の重なりともいえるバラバラな現実の出来事を物語に置き換えることで現実を理解する、あるいはそうすることでようやく理解しているのである。 しかし現実の出来事、事件というのははたして警察の調書に書かれているような、あるいはNHKニュースやワイドショーで語られているようなチープな物語であるはずがないだろう。 そこからこぼれ落ちていった無数の偶然を拾い上げて、新しい物語を語り直すことでもう一度現実を掴みなおすことを人々は現在渇望している。