体験の物語化

 冷蔵庫、冷凍庫ともにかなり空っぽになって来た。 明日か明後日でも買出しに行かねばならないだろう。
 海老の冷凍と手羽肉が少々ずつ残っていたので、またまたそれで餃子を作った。 鶏肉の餃子というのはあまり聞かないが、一度挑戦してみようと前々から思っていた。 いずれにしろ肉類は荒めに切って入れるのがオフの餃子のコツなので今回もそうしたが、その代わり粘りを出すために海老は微塵にした。 白菜も残り少なかったので仕方なくレタスで代用した。 残り物処理よような餃子だが、結果は・・・まあまあこれもなかなかイケルだった。

 昨日遅かれ内田樹氏が村上春樹の新刊 「1Q84」の書評を書くだろうとからと書いたが、今日の内田氏のブログに、本人はまだ全部読了していない段階だと断りを入れて、最初は一般的な<体験の物語化>という視点から構造主義的な春樹論が書かれてれている。
 ≪現代中国で村上春樹は圧倒的な人気を誇っているが、それを「現代中国の若者の孤独感や喪失感と共鳴するから」というふうに説明するのは、ほんとうは本末転倒なのである。 そうではなくて、現代中国の読者たちは、村上春樹を読むことで、彼らの固有の「孤独感や喪失感」を作り出したのである。 「それまで名前がなかった経験」が物語を読んだことを通じて名前を獲得したのではない。 物語を読んだことを通じて、「『それまで名前がなかった経験』が私にはあった」という記憶そのものが作り上げられたのである。≫
 さらにこれは抽象化されて
 ≪私たちは記憶を書き換ることができる。 そして、自分で書き換えた記憶を思い出して、「ああ、私のこのような経験が私を今あるような人間にしたのだ」と納得する。 勘違いしている人が多いが、人間の精神の健康は「過去の出来事をはっきり記憶している」能力によってではなく、「そのつどの都合で絶えず過去を書き換えることができる」能力によって担保されている。≫
 が、ここまで読んで直感的にアレレ・・・これは今回の作品の広範な意味でのテーマなんじゃないか・・・今回の作品をまったく何も読んでいないオフだがそんな「既視感」に捉われてしまったよ。 その中で内田氏は一般論で体験の物語化というようなことから書き始めながら、いつの間にか「1Q84」について切り込んで書いているのである。 そして最後まで読んでいくとほぼ書評に近い文章だったと思ったよ、これが・・・あ〜あだなぁ・・・
 まあこの程度のテーマ性についてはよく本の帯などにも書かれている程度のことだからよしとしよう・・・熱波に侵されているような内田氏を今日のブログから感じたから、作品が届くのがますます楽しみである。