ありふれた幸福

 橋本治著の「権力の日本人」をようやく読み終える。 前にも書いたようにこの本は橋本氏の「双調平家物語」15巻を書いた時のメモノートである。 
 王朝政権から権力が武家政権へ移行するダイナミックなこの時代の流れをこの本で彼なりに読み解いている。 そのうちの藤原摂関政権が何故にその土台がぐらつき、院政が生まれていったかを簡単に著者の見解のサワリの部分を抜書きして紹介する。

 ≪「ありふれた幸福」というものを誰が作るのかと言ったら、それは「既存の勢力」である。既存の勢力が「ありふれた幸福」を用意して、そこに「新しい要素」を取り込んでしまう。権力者の娘から后を贈られ、その后を得ることによって、天皇として安定した人生を確保するというのが、摂関政治時代の天皇のあり方である。そうして天皇を取り込むことによって、既存の勢力は、既存のままの繁栄を確保する。「必ず取り込める」という、取り込む側の自信と、「そこに取り込まれなければ何も出来ない」という、システム上の構造があればこそ、既存の勢力はその繁栄体制を維持出来るのだが、ここには一つだけ崩壊の危険性が隠されている。それは「取り込む」に関する見当違いである。
 取り込まれてしかるべきものが取り込まれればこそ、既存のシステムはその存続を維持させる。しかし間違えて「取り込まれてしかるべきもの」を取り込まず、うっかり孤立させてそこに「不幸」というものを育ててしまったら?「取り込まれてしかるべきもの」は、もう既存体制に入らないーー復讐のような形で、別のシステム作ってしまう。院政というのはその「別のシステム」で「取り込まれてしかるべきもの」を取り込み損ねた既存のシステムは、そこでエネルギー危機と同じようなシステムダウンを起して、終息へ向ってしまう。摂関政治の時代が院政の時代へ向かい、源平の争乱から鎌倉幕府が成立して、王朝の時代がいつの間にか終わってしまっているという状態になるのは、院政鎌倉幕府と「既存の体制に入らない」が二度まで続いてしまった結果である。そういうとんでもない結果がどこに起因するのかというと、 ヨシ(衣編に貞)子内親王という一人の女性に対する無視(シカト)だったりするから、人間の世界というのは、とてもデリケートなものである。≫

 <ありふれた幸福>に取り込むことが出来ずに既存体制から外れてしまいかねないーーーそこにはまわりからシカトされたヨシ子内親王の<ありふれた幸福>なんかでは騙せない<不幸>の存在があり、それが摂関体制の根底を揺さぶったと作者である橋本氏は鋭く指摘している。 では、そのヨシ子内親王の<ありふれた幸福>なんかで騙せないほどの<不幸>の因は何であったのかといえば・・・それは、この本を読めば簡単に分かるのだが、ほんの少しだけ(笑)触れておくと・・・ある女の幸せ結婚と、その後の幸せ体験だったということが出来るだろうと思う。 そして母親になった女は当然のこととして、その幸せを娘や孫にもまた分けてやりたいと思う・・・そこまではごく<ありふれた幸福>の物語の内で何の問題もないのだが・・・とりあえず、たまたま権力に近い立場におはした女は気が付かないままに自らの権力を行使なさっていた、とでも言っておこう。
 それにしても<ありふれた幸福>とは、分かりやすく、かつ手っ取り早く言えばわれわれの時代では良い子にしてよい大学に行くというか、よい会社に入るというかいうことなのだろうが・・・それは既存の秩序とか体制が用意する幸せと重なり、それによってわれわれは知らずに既存社会体制に取り込まれていっている訳なんだが・・・ それでは肝心な面白い話をカッ飛ばして、次の院政の話に移るとする(爆)

 さてさて、ではどうして白河天皇が力を持ったのか?
 ≪家格は絶対だ、という考えが広く浸透していて揺るぎなかったとしても、「それはそれとして、俺はもうちょっとなんとかならないのか・・・?」と思う人間はいくらでもいる。そういう人間たちにとって、白川天皇との関係は、閉塞的な家格社会での、数少ない抜け道となるのである。かくして即位した白河天皇は、彼自身の力ではなく、周囲の人間達のゴタゴタした力関係の争いによって、いつの間にか天皇親政に近い優位性を確保してしまう。そして、そうなったら当然、自分の立場と優位性をはっきりさせたい高官達は、ますます白河天皇に取り入って、白河天皇を強くしてしまう。白河天皇院政を可能にする力が宿ったのは、白河天皇が力ずくで政権奪取をしたのではなくて、彼を取り巻く周囲のゴタゴタが、なにもしない白河天皇にその力を授けてしまった結果なのである≫
 
 今度も具体的な事実をチョットだけ書けば、三十歳で摂関家を継いだ右大臣藤原師実が当時まだ東宮(皇太子)であった白河天皇に養女を贈る。(嫁さんを贈るのだが、これは当時としてはさして珍しいことではない) しかしほどなくして帝位についた白河天皇のエコ贔屓により師実は叔父に奪われていた関白と氏の長者の地位を手に入れてしまった。 それだけではなくて娘を師実に養女として差し出した傍流の者達も恩恵を受けた。 それまで天皇というのは私心を持たず心をむなしくさせて初めて成立する公的な存在とされていた。 それは国民統合の象徴などと憲法で規定されている今でもそうなのだが(涙) しかし、そのように言ってみたところで人間は抽象的に存在ではない。 そこで私的な欲望を代理執行する摂関家などという権力が成立してしまう訳だが、それが天皇の私的な欲望の代行だけではなくて、その権力ゆえに摂政、関白である人たちのの私的な権力行使に繋がっていった。 ところが白河天皇は簡単に言えば、私的な部分での自分の欲望を直接表面に出して処理してしまった訳なんだ。 
 ≪朝廷の高官達は、「白河天皇との関係」によって、自分達のあり方を確固、あるいは強化しようとするーーそのことによって、高官達の存続する朝廷のシステムは明確になる方向へも進むが、要の部分は、「白河天皇との関係」にある。だから、白河天皇が、「自分との関係」を前提にして、「朝廷の高官」にはなりえないような家格の人間をプッシュしてしまえば、そこに「新しい朝廷の高官」も生まれるーーそのようにして、摂関家の当主を頂点とすることによって成り立っている朝廷というシステムは、いつの間にかブヨブヨに肥大したものへと成り下がってしまう。ブヨブヨに肥大して、しかしそのシステムは、システムを維持するために、「頂点としての摂関家の優越と絶対」だけは崩さない。≫ これを侵食する結果になったのが清盛の平氏政権なのである。 さらに橋本氏の話はこの本のテーマである日本人の権力論へと鋭く突き進むのである。

 ≪院政の不思議、あるいは分かりにくさは、院政というものが、「天皇を裁く朝廷と対立する形で生まれた」ではなく、「超越的な上皇の存在を許す」という、朝廷=摂関政治院政が共存したままで始まったところにある。二つの権力システムが平気で共存してしまっているから、どこに中心があるのか分からない。「一つの頂点」を持つ政治体制が二つあって、これが共存しながら、なんとなく「一つ」を実現してしてしまっている。だから「分かったような気もするが、実はよく分からない」という結果になる。システムを作るまではある論理体系を援用するが、システムが出来上がってしまえば、基本になる論理体系より、そのシステムによって出来上がっている。「現実」の方が優先されるーーだから、論理的な顔をしていてもちっとも論理的ではないという、今に続く日本の現実第一主義は出来上がってしまうのである。≫