匂い、臭い

 いきなり尾篭な話で申し訳ないが、一昨日だったがトイレに入ってウンコをしたのだが、クサイなぁ・・・と驚いた。 ウンコがクサイのは当たり前の事なんだが・・・ここのところトイレでウンコはクサイなどとまったく思わないまま過ごしていたんだなぁ、とあらためて気が付いた。 ここへ来てようやく匂いの感覚が戻ってきた、ということなんだろうと思う。 しかし、まだまだ健康な頃に感じていた臭いとは少し違うように思う。
 病院に入院して治療していた時、自己末梢血採取のためにエンドキサンという抗がん剤を大量に点滴された後、匂いに対して極端に敏感になった時期があった。 普通の人が臭わないようなかすかな臭いもビンビンと鼻に付いてきて困った。 それもそれまで健康な時に感じていた臭いとまったく違う臭いとして感じるのだった。 たとえば洗剤などに入っている芳香剤がたまらなく嫌な臭いとなって感じるとかである。 そんなある日たまたま病室で嫁さんが葡萄のゼリーを食べたことがあった。 そのパックされたゼリーの上蓋を取っただけで部屋中にある種の臭いが充満して閉口したことがある。 それは本来の葡萄の匂いではなくて何と言うか・・・とにかく嫌〜な臭いだった。 おそらくそのゼリーには本物の葡萄からではなくて、化学的につくられた葡萄の匂いに似た匂いが使われていたのではないかと思う。 それにその時期、今とはまったく逆でとにかく唾液が出て、出て困った。 それもスッパイ味がする唾液が口内に次々に泉のように出てくるのである。 次々に出る唾液を拭くために一晩でテッシュノの箱を一箱使うほどであった。 
 昨夜はケーブルテレビでタランティーノ監督のデビュー作である「パルプ・フィクション」を観た。 この映画を観るのはこれで二度目で、前に観たときよりだいぶん時間が経っていたのだが、ストーリィはかなりよく覚えていた。 覚えている割に今再び観てもこの映画はまだまだ新しさを感じた。 それだけこの作品は良い作品だったということだろうと思う。 それに比べれば彼のその後の作品である「キル・ビル」などは、単なる劇画ストーリィをまさに劇画として描いた作品としてしか思えなくて、もう一度観たくなるような作品ではなかったと思う。

 昨日池田信夫氏の主張について書いたが、最新のブログの結びで彼はこう結んでいる。
 ≪もはや会社のために人生を犠牲にしても、それが報われる保証はない。つぶしのきかない文脈的技能しかもたないまま労働市場に放り出されたら、たちまちホームレスに転落だ。がむしゃらに「額に汗して働く」のはもうやめ、主体的に仕事を選んではどうだろうか。起業というのは、多くの人が誤解しているように金もうけではなく、自分の好きな仕事をする生き方なのだ。 それはGDPベースでは高い成長率を実現しないかもしれないが、人生の目的は経済成長ではなく幸福だ。日本国民の一人あたりGDPはここ50年で7倍になったが、幸福度は2.9から2.6に低下した。もうそろそろ会社に売り渡した時間を取り戻し、自分の人生を自分で決めてはどうだろうか≫
 彼は東大を卒業後、NHKでは報道局特報部でディレクターを務め、『ニュースセンター9時』の制作に関わったりしていた。 またNHKを退社したのは39歳で管理職の辞令を受けた時だが、管理職になると番組制作には基本的に携わることができなくなり、制作費の管理というつまらない仕事をするだけだと自分で述べている。 その後、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科入学、 修士課程修了 、同大学院博士課程中退。 その後40歳半ばで経済学者として再スタートしていて、現在上武大学大学院教授などを務めている。 「もうそろそろ会社に売り渡した時間を取り戻し、自分の人生を自分で決めてはどうだろうか」 という彼の主張は説得力があるが、それだけ苦労や努力もしていることを忘れてはいけない。