RONIN

入院していてタンデム(二度目の自家移植)かの強い後遺症から抜けた頃から、軽い躁状態が続いていたような気がする。 ここへ来てようやくその軽ハイ状態が納まって来ている。 それはそれで良いことだと思うが、ブログに書くネタが急に浮かばなくなってきた。 この間の軽ハイ状態では書くテーマやネタは次々泉のように出てきて、ネタが切れるなどと言うことはありえない気分だったが・・・一転して今はなあ〜んにも出てこない。 

 昨夜、ロバート・デ・ニーロジャン・レノの出ているエンターティメント映画「RONIN」をケーブルテレビで観た。 長々と続くカーチェイスが嫌になり途中で何度かチャンネルを変えたりしたのだが、その他のチャンネルでも観たい映画はなかったので結局最後まで観ることになった。  タイトルがローマ字で浪人である。 元藩仕えをしていた侍が何らかの事情で藩から野に下った、それがRONINということらしい。 つまり東西の冷戦が終わった後の用済みになった元CIAと元KGB同士の争いという物語である。 物語の中で元工作員だった一老人が出てくる。 彼は今は個人的な趣味の世界に生きているのだが、その趣味というのが日本の武士の合戦のミニチュア造りである。 それを造りながら、赤穂浪士の四十七士のあだ討ち物語の話をする場面がある。 主人公であるデ・ニーロは最後に彼らは切腹つまりハラキリをするという話を訊いて???となってしまう。 デ・ニーロならずとも西洋人にとっては文化の違いとはいえ、事を成就した後ハラキリするなどとはまったく理解を超える世界だろうなぁ、と笑えた。
 世界はグローバル化していると言われているが、それまで民族衣装を着ていたチベットの子供他たちが、Tシャツに半ズボン姿になってしまったのも一つのグローバル化の例証と言えないことはない。 ところがグローバル化という語は西欧文化を世界が受け入れることのみを指している場合が多い。 大陸の東の果ての島国であるJAPANの文化を世界が理解する日は果たして来るのだろうか?
 昔、アメリカに留学していた学生のブログに、学生たちの集まりで、日本の夫婦の間では給料を全部そんぐり奥さんに預けてしまい、その中からお小遣いを貰っている夫も少なからずいる、と言う話を披露したら、そこにいた全員の学生からそんな馬鹿な話は訊いたことがない!信じられない!といの返事が返ってきて戸惑ってしまった、と書いていたのを読んだことがある。
 グローバル化ということは決して悪いことではないと思う。 しかし、それはあくまでお互いの文化を知り合い、理解し合い、敬愛し合う、という意味においてである。 世界の人々が自分の文化を通した目でしか物事が見えないより、より多角的な目で他国の文化を見れることは、お互い同士の争いの種も減ることに繋がるだろう。 そのためには学び、知ることが大切ということになるのだが、ところが高学歴の人の中には異様と思われるほど他文化を侮蔑し、見下すことで溜飲を下げ散るような人々が少なからずいる。 と言うことは学び、知り、啓蒙することだけではグローバル化には十分ではないと言うことになる。
 凪や嵐もある偶有性の海の中で、その人がいかに自我を揺籃し形成して来たか、その仕方の中にすべてが隠されているのだろう・・・と思うしかないようである・・・