幼なじみ

 昔から読んでいるアクさんという人がブログhttp://aquarian.cocolog-nifty.com/masaqua/に今日<結婚50周年>というタイトルの文が載っていた。 その中で彼の奥さんとのいきさつ ≪妻になったみやとは、小学校から中学にかけての幼なじみであった。家族ぐるみの付き合いのなかで、互いを結婚相手として意識するようになり、私の就職後まもなく婚約し、一年後結婚することになった≫ と書かれたいた。
 これを読んだ時、ああ、いいなぁ・・・と思った。 オフには幼なじみと呼べる女の子というのはいなかった。 幼なじみと呼べる仲の相手がいるためには、第一に家庭環境という問題が大きいだろうが・・・それは望むべくもない環境に育ったオフだが、いまだに幼なじみという言葉を訊くと心がザワザワするような憧憬を持っている。
 ところがオフの嫁さんには幼なじみと呼べる人がいたと言う。 小学校時代嫁さん一家は当時建ったばかりの4階建ての市営のアパートに住んでいた。 当時それを文化住宅と呼ばれていたが、キッチンにテーブルと椅子を置いてそこで食事をするというライフスタイルが珍しがられ、もてはやされていた。 当時の一般家庭では足を折り畳める丸いチャブ台があり、それを食事時に茶の間に出して、家族がそのまわりの畳に座って食事をするというのが大方の家での食事風景であったそんな頃のことである。
 そこの別棟のアパートにヤスシ君一家が住んでいて、そのヤスシ君というのが嫁さんの幼なじみだった。 たまたま二人は近くの公立の小学校ではなくて、神戸大学の付属小学校に通っていたので、通学時には二人で仲良く手をつないで通っていた。 時々デパートの食堂へ嫁さん一家とヤスシ君も一緒に食事に出かけたりすることも何度かあった。 そんな仲のよい二人をやっかんだのだろう、教室の黒板に傘マークが描かれて、下に二人の名前が書かれていたりしていたことも時々あったと言う。 ヤスシ君はそのことを少し気にしていたみたいだったが、嫁さんはそんなことをされても何とも思わなかったと言う。 ヤスシ君の父親は医師でありながら大学の教授か何かをしていて、しょっちゅう海外へ出張している人で、帰って来たときは海外で写して来た8ミリ映写機の映像を見せてくれて、それが両家の楽しみであった。 一見絵に描いたような幸せなインテリ家庭に育ったヤスシ君だが、どういうわけか母親との関係が悪く、というより一方的に母親を憎んでいて、時には母親に向って本気で石を投げつけたりするような行為をすることもあったらしいのだ。 その理由について嫁さんが聞いてもヤスシ君は黙り込んで何も説明してくれなかったと言う。 そんなヤスシ君一家だが父親の転勤である日横浜へ引っ越していってしまった。 ところが後々に、中学生頃からだったらしいがヤスシ君から突然電話があり、アパートに一人で遊びに来たことがあった。 兵庫県の田舎の方にヤスシ君の知り合いの家があり、そこへ遊びに来たついでに遊びに来たという説明だった。 だがその後、学校に通学している時などにも電話があったりして、おかしいなぁと思っていたと言う。 どうやらヤスシ君は横浜の中学校では不登校になってしまい、やむなく田舎の知り合いの家に預けられて、そこから近くの学校へ通っているという事情もだんだん分かってきた。 さらにヤスシ君はその田舎の学校も休みがちで、どうやら不登校は続いているみたいだった。 学校は行けなかったヤスシ君だが、もともと頭のよい子だったので明石市にある天文科学館やそこに併設されているプラネタリュウムなどが好きで、嫁さんは付き合ってそこへ何度か一緒に出かけたと言う。 
そのヤスシ君がある日を堺に突然来なくなってしまった。 理由は定かではないのだが、ある日今日これから訪ねてよいか、と電話があったのだが、丁度その日少し気を張るお客さんが来る日だったので今日はダメなの、と断ったというが、その日以来プッツリとヤスシ君からの連絡が絶えてしまったという。 嫁さんの幼なじみの話はこれで終わりだ。
 オフの娘も小学、中学、高校と数年間不登校だったが、せいぜい今から13〜20年前のことで当時はまだ登校拒否と言われていた頃で、全学で一人か二人しかいなくてまだまだ珍しがられていた。、不登校していたヤスシ君だが、彼が不登校していたのは今からおおよそ40年も前の話である。 当然のことながらまだ不登校とか登校拒否という言葉もなかった頃の話である。 今嫁さんが一番逢いたい相手がいるとしたらヤスシ君だと言っている。 もちろんオフも出来るなら彼に逢ってじっくり話あってみたい。