駆け込み訴え

 こういう言い方はもともとあまり好きではないが、人はそれぞれ十字架を背負っている。 オフはキリストも神の子などとは見なしていないので、キリストはキリストなりの十字架を背負っていたというふうに思っている。 十二人の弟子の中の一人でキリストを裏切り、銀三十と引き換えにキリストをパリサイ派に引き渡したとされる人物ユダも、また同じようにユダなりの十字架を背負っていたと思う。  しかし皮肉な見方をすればキリストが十字架にかけられることがすでに予言されていたのだから、それの役を与えられ、その役を忠実にこなしたのが、このユダであったとも取れないことはない。

 新約聖書の成立は4世紀頃といわれる。 その間に正統と異端が選別され、正統としてマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書が正統な「聖書」とされているが、それ以前に多くの福音書があったことも分かっている。  「ユダ福音書」の存在は古代から知られていたが、4世紀に編集された新約聖書に「ユダによる福音書」はないので、異端に選別されたと考えられる。 最初期のキリスト教理論的指導者エイレナイオスが、その著書「異端反駁」で、「ユダの福音書」について、「彼らがユダの福音書と呼ぶものは、偽りの歴史を創作したものだ」として正統から外したと言われている。

 ところが20世紀になってその「ユダの福音書」というのが発見された。 ウイキペディアによると以下のようなことであるらしい。
 ≪2006年4月のナショナルジオグラフィックの発表によると、1970年代にエジプトで発見されたパピルス冊子の解析が進み、それが『ユダの福音書』のコプト語写本断片であると分かったという。 現代語訳(英語版)、日本語版と相次いで刊行された。
 イエスを裏切ったイスカリオテのユダが実はイエス・キリストの弟子の中の誰よりも真理を授かっており、「裏切り」自体もイエス・キリスト自身が主導したものであるという  『ユダの福音書』は『異端反駁』に名を挙げられていることから2世紀には成立していたと考えられる。また、復元・解読された現存する唯一の写本(チャコス写本)はギリシア語原本からコプト語に翻訳されたものであり、220-340年頃に筆写されたものと推定されている。≫

 太宰治作の「駆込み訴え」http://www.ka.shibaura-it.ac.jp/kokugo/dazai02/b/38/bun.htmlの中では、ユダの裏切りは、キリストへの愛情と憎悪が背中合わせに描かれている。 それは冒頭の
 『申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷《ひど》い。酷い。はい。厭《いや》な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。 はい、はい。落ちついて申し上げます。あの人を、生かして置いてはなりません。世の中の仇《かたき》です・・・ 』 
 この切羽詰った畳み掛けるような語り口、太宰独特の羞恥を含んだ自己嫌悪と皮肉な哀しみとユーモアーがないまぜになって、この物語は始まっり続いている。 この作品の中に出て来るキリストとユダの両人とも、太宰の分身と読み取れるのだが、短編だがまさに名作といえる作品である。 

 今日はなんだか訳の分からない話になってしまったが、昨夜たまたま若い夫婦に会うことがあり、嫁さんも交えて四人でいろいろ話をした。 その話については控えるが、若い二人はそれぞれ病を抱ている。 彼らが帰った後リビングで缶ビールを飲みながら、<十字架を背負う>などという普段思ったりしないような大げさな言葉をが頭に浮かんだまま消えていかない。