変わり身

 現場検証に立ち会うため嫁さんは、午後から娘に運転してもらい出かけていった。 その嫁さんだが、昨夜下の階の母親のオシメを取替えに行くため起きたのだが、立ち上がりしな突然目まいがしてしまったと言う。 それも最初はクルクル目まいだったが、その後で起きたのは立ったまま谷底へ落ちていくような怖いものだったと言う。 突然起されたオフは事故の後遺症と思ったが、どうやら嫁さんの話では何年か前にも同じ症状があったそうで、耳小骨というものが有って、それが老化などによって破片が三半規管内に落ちるのが原因とされているらしい。
 それはそれとして、今日午後嫁さんは現場検証に出かけたのだが、現場に着いてから路肩のガードレールの傷ついた跡を指し示しながら、あなたの車はここへぶつかったのですね、と警官が言うが同じようなような傷跡もすぐ横にありどちらがどちらだろうかと迷っていると、横の傷跡は以前の事故のもにです親切に教えてくれたそうだ。 さらに両者の車が接触した場所もここですよね指摘され、嫁さんはそうだったかなぁと思いながらただそうですか肯くだけであったと言う。 どうやら警察では今回の事故はもう完全に接触事故扱いになっていて、嫁さんは被害者の立場として見なされているようで、そのあまりにも警察の見解の変わり身の早さに拍子抜けしてしまったと言う。 今回の事故ではさいわい相手の車の後ろのタイヤの跡が、当方の車のボンネットの先に残っていたが、もしこれが間一髪両者の車が接触を免れていたら・・・こうも簡単にこちらの言い分を訊いては貰えなかったのではないかと思うと・・・心からゾッとしたと嫁さんは言う。
 昨日までの警察側の見解は、両者の事故はそれぞれ単独に起こった事故で、相手の車が数十メートル先で横転しているのを見て、嫁さんはそれに追突するのが怖くて手前でハンドルを切って勝手にガードレールの激突して事故を起したと見なされていた。 だから、他の車は皆、事故を起さないように回避していったのに、あなただけは何故それが出来なかったのか?と非難するような言い方をされていて、どんな場合でも冷静に事故を回避する運転をすることが大切なんですよ、と諭されていたのだった。  それも呆れることにこちら側の言い分をまったく聞かない先に、そのように警察官から頭から指摘され、諭されていたと言うのだ。

 昨日に引き続き、今日も漱石の「明暗」を読む。 その中から少し気になる表現の箇所があって以下に抜書きしておいた。
 ≪「じゃ此方でも簡潔に結論を云っちまう。果して由雄さんが、お前のいう通り厳格な人ならばだ。到底悪口の達者なお前には向かないね」
 こう云いながら叔父は、其所に黙って座っている叔母の方を、顎でしゃくって見せた。
「この叔母さんなら、丁度お誂らえ向かも知れないがね」
 淋しい心持が遠くから来た風のように、不意にお延の胸を撫でた。彼女は急に悲しい気分に囚えられた自分を見て驚ろいた。
「叔父さんは何時でも気楽そうで結構ね」
 津田と自分とを、好過ぎる程仲の好い夫婦と仮定してかかった、調戯半分の叔父の笑談を、ただ座興から来た出鱈目として笑ってしまうには、お延の心にあまり隙があり過ぎた。と云って、その隙を飽くまで取り繕って、他人の前に、何一つ不足のない夫を持った妻としての自分を示さなければならないとのみ考えている彼女は、心に感じた通りの何物をも叔父の前に露出する自由を有(も)っていなかった。もう少しで涙が眼の中に溜まろうとした所を、彼女は瞬きで胡麻化した≫

 ≪ ある意味からいうと、毎日土俵の上で顔をあわせて相撲を取っているような夫婦関係というものを、内側の二人から眺めた時に、妻は何時でも夫の相手であり、又会(たま)には夫の敵であるにした所で、一旦世間に向ったが最後、何処までも夫の肩を持たなければ、体よく夫婦として結び付けられた二人の弱味を表へ曝すような気がして、恥ずかしくていられないというのがお延の意地であった。だから打ち明け話をして、何か訴えたくて堪らない時でも、夫婦から見れば、矢張り「世間」という他人の部類に入れべきこの叔母の前へ出ると、敏感のお延は外聞が悪くって何も云う気にならなかった≫