癌について

 昨日から四人部屋に替わったのだが、お隣のベッドの患者さんは年齢がオフよりほんの少し上だと思うが、血圧を測りに来ていた看護婦さんに向かって、北朝鮮に二、三発ミサイルを撃ち込んでやればいいんだ、だいたい日本はナメられすぎているんだ!などと声高に言ったりする。 またTVを見ながら突然何か喋りだす。 つまり耳にイヤホーンをしながら喋りですので大声になり、突然カーテンの向こうからのその大声に驚かされると言う訳だ。 また、向い側のベッドの患者さん、こちらはオフより少し年若でまだ50代と思われるが、間延びした喋り方をして子供帰りをしたように看護婦に甘えようとする。 もっとも彼にも好き嫌いがあるようで、全ての看護婦さんに対してではないが(笑) 大の大人のそんな甘えた様子を横で訊かされる身になるのは決して心地よいものではない。 もう一人の斜め向かいの患者さんだけはありがたいことに極めて静かに過ごす人である。 いろんな人がいるのはそれは決して悪いことではないのだが・・・・いったん読書中に集中力が切れると、また再び読み始める、これがなかなか大変なのだ。 ここにいる間難しい本は読めないだろうとあきらめることにした。 

 今回のブログを書き始めたのは昨年の夏頃からで、血液検査で昨春見つかった多発性骨髄腫という骨髄の癌で入院し治療が始まってからである。 骨髄腫というのは正確には骨髄内で作られる形質細胞がその小さな一個一個に悪性の腫瘍が出来るし、その細胞の数が異常に増えることから起きる病気である。その形質細胞と言うのは血液中のあって全身を駆けめぐり、新しく骨を作ったり古くなった骨を壊したりする働きを担っている細胞である。 それにわざわざ多発性というのは、癌の位置が特定の箇所ではなくて血液中や各所の骨髄などにあることをいっている。 また、六十歳頃からこの病気が出てくることが多く、約10万人に2人ぐらいの発生率で、男女の差では男が多いし、黒人は白人や黄色人種数倍の高さで発生しているという。
  今日はこの間の治療の間に考えた<癌>についての話を書こうと思っている。 このことに関してはまだまだ考えを煮詰めなければならないのだが、現在のところのまとめ、ということで少し書いてみようと思う。 一昨日は脳の不安について書いたが、今は何かを書いていても今の自分にとって興味のある脳(自我)と身体という方へ話が向かってしまうようだ。 さて、この間の治療中の間にずっと考えていた<癌とは何か>ということについて自分なりの一応の結論が出せたように思う。 このブログを書き始めた昨年の9月の11日(何と9・11だ)に<ガンは椎茸?>というタイトルでその前の日の<毒を持って毒を制する>の続きとして、当時の結論を以下のように書いている。 
 ≪人間の体に出来る悪性腫瘍すなわちガンというのは一体何なのだろう。
 オフの血液中にある小さな形質細胞に出来ている小さな小さな腫瘍も、ガンであると言われている。人間の身体の全ての正常な細胞は、遺伝子によって死ぬ為の手順のプログラミングがされている。(これをアポトーシスと言う)いわゆる細胞は、遺伝子に死のマニュアルを持って生まれてきているのである。ところが、人間の体にできる悪性腫瘍といわれているガンは死なずにどこまでも生き続ける。そのおおもとの人間の体が滅びる(アポクライシス)まで生き続けるシステムになっている。ガン化した形質細胞が死なずに一方的に何万、何百万と血液中に増えてしまうものだから、多量のガン化した形質細胞によって骨が破壊されてしまう。これをどう考えたらいいのだろう?
本体が死んでしまえば、自分たちも亡びざるを得ない。言ってみれば馬鹿なガンであるが、これをどういう風に理解したらいいのか。
かなり乱暴だがオフなりに単純化してこのように考えている。
「木に椎茸が生えるようなものだ。」
椎茸は木の栄養分を吸って生まれ育ち、木の栄養分がなくなるまで発生し、ついには木と共に滅んでしまう。ガンとはそのようなものだと考えている。でも確かに木にとっては迷惑なものだが、大自然のサイクルの中で考えれば、土の中から出てきた木を分解して、最後に土に返すサポートをするのは椎茸の役割でもある、という考え方も出来ると思う≫

 そこで今回の結論を週刊誌的な衝撃的に表現するならば、以下のような表現になる。 ≪癌は病気ではない!≫と。 これについては今夜もう一晩考えをまとめて、明日にも書くことにする。 明日?・・・4・8!お釈迦様の誕生日だぁ〜(笑)