『双調平家物語』

 今日お昼前に看護婦長さんが部屋へ来て、部屋を変わってもらえないか、と言った。 急患の患者が出たので個室から四人部屋へ移動してほしいと言うことだった。 もちろんOKして午後から部屋替えが行われた。 この病院は30年ほど前に建てられた建物らしいが、言わせてもらえば個室はやや広いが使い勝手が悪いし、四人部屋は明らかに狭苦しい設計になっている。
 この間の週末の経過は悪くない。 今日月曜日の採血の結果白血球が四千台から二千台へと下がったが、これは先に点滴されていたグランの効き目が切れて来ているからで、この数値がさらに下がってその次に上がり始める時の数値からが自力での回復した数値となって出てくるわけだ。 また、肝臓の指標であるGOT、GPTもそれぞれ47,64と少しずつ下がり始めている。 数値が表わしていると同じように体調の方も悪くない。 食事の方は順調に食べているし、37度台の微熱も出なくなった。 また、しばらく続いていた夜中に汗をかいてパジャマが濡れて慌てて着替えるということなども二夜なかった。 順調にいけば今週末外泊ができて、来週末ぐらいに退院となるかも知れないと勝手に思っている。 橋本治著の全15巻の『双調平家物語』を昨日読み終わった。 小学生か中学生の頃子供向けにダイジェストされた平家物語を読んでことがあったので、大筋のストーリィは知っていた。 あらためて思ったのは平家物語こそまさに国民的な叙事詩と言ってもよい作品であるが、最近の子供達がこの話を少しでも訊き知っているか少し心もとない気がする。 まだ、同じ作者の別刊の『権力の日本人』はまだ読んでいないのだが、これもいずれ近々読むことになるとおもう。 わざわざ<双調>とあるのはなぜだろうと思っていたが、読み進めていく中でもやはりその意味があまり分からなかった。 ただ、本来の平家物語と違って半分過ぎても一向に清盛だけでなく平氏と言うか平家一族さえ隅っこにも出てこないので、少し呆れながら読み進めていた。 読み終わった今になって橋本氏がわざわざ<双調>との付け加えた意味がようやく分かってきたような気がする。 間違っているかもしれないが、有名な冒頭の

 祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらは(わ)す。
おごれる人も久しからず、
唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、
偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ。

 この表現に端的に表わされていると思うが、本来の平家物語は日本的な仏教の無常観に貫かれて書かれている。 これを著者が<双調>としたのは、それに加えて著者である橋本氏が彼の思想、現代に生きる彼の思想ものの見方、人間観というべきものも人物把握やその人の間の動きを描いて書いているからだろう。 よくあるような現代の歴史小説は現在の史観、現代に生きる作者の史観で再構成して作品化されている。 だがこの作品はそれとは違ってその新旧の史観の両方を並列させながら、本来の平家物語が持つ思想、無常感を出来るだけ生かし、また現代の橋本氏の史観との違いから生ずる齟齬、不自然さ、違和感を出来るだ起こさないように配慮して書かれている。 だからこそわざわざ<双調>と付け加えたのではないだろうかと、このオフは愚考するしだいでありまする(やんごとなきすめらみことの前では何かを奏上する時の結びは、このようにしてモノ申すのだよ)