不安の続き

 湯たんぽで温めても背中のドクドクは良くも悪くもならなかったが、もし温めることが腎臓にとってあまり良くないことだったら・・・・とフト思うと何となく不安になって湯たんぽを外したのである。 その上で腎臓について知っている事をいろいろ思い出して見た。 昔知っている人で透析を受けている人がいたが、体が冷えると辛いのでしょっちゅう風呂やサウナへ出掛けている、と言っていたことが思い浮かんだ。 だとしたら、腎臓を温めるのは特に悪いことでもなさそうだなぁと思うと少し安心できた。 しかし相変わらず背中のドクドクは続いている訳で、しばらくするとまた、いったいこれは何故だろう?と不安感が頭を持ち上げてくる。 夕食を食べ終えて見舞いに来ていた娘も帰ってしまった。 静かになった夜の病室で一人寝て生まれて初めて感じるドクドク感を下腹部裏に感じていると思うのは、これはなんなのだろう?と云う疑問ばかりで、また不安感は少しずつ少しずつ増してくる。 その日は病院は休日でまして夜なので、担当医師は勿論、血液内科の医師などいないし、病院全体でも当直の医師が一人いるぐらいである。 緊急の場合は担当医師に看護婦から連絡するという事になっているだろうが、とくに痛いとかとの症状が出ているわけでもないので、ここで不安だからと言って一人ワアワア騒ぐ訳にもいかない。 八時過ぎ夜の検温に来た看護婦の声を訊いて、ああよかった、と思った。 と言うのはその看護婦さんはまだ若いのだが、看護を病気治療の一環として見れる事の出来る人である。 さきに湯たんぽを渡してくれた看護婦さんは、どちらかと言えば現場での臨床的な経験の積み上げをもとに看護をすすめているタイプである。 最近の看護婦さんも大学卒の人がだんだん増えてて来ているせいも知れないか、そういう人達の中には病気を詳しく教え込まれた知識を元に把握してそのもとで看護をすすめていタイプがポチポチいる。 血圧を測ったり検温をしながらその看護婦さんに先ほどからの症状の経過を説明してみた。 彼女の考えでは、それは腎臓ではなくて骨、骨盤で起きている症状ではないかと言う。 と言うのは抗がん剤によって骨髄が働きが抑制されていている状態が続き、そこへ骨髄の働きを促すグランという薬を点滴したりするとその最中に急に骨が痛みだしたり、血流が早くなり痛みや不快感を訴える患者さんが時々出てくる。 それは抑制が解除されて骨髄が急に働きを強める時の副作用のようなものです、と言うのだ。 オフは連日グランの点滴を受けているが、ドクドクを感じだしたのはその点滴の最中ではないが、彼女のさらなる意見では、少しずれてはいるが抑制が取れて骨髄がどんどん白血球や赤血球血小板などを作り始めて、そのために骨盤内の骨髄へ血液が送り込まれているのではないかという事なのだ。 なかなか説得力ある説明である。 今度は、じゃあどうしたら良いのか?と訊いてみたら、痛みが伴うようでしたらレスキューの痛み止めを出せますが、特に痛みがないのでしたら早めに睡眠薬でも飲まれて眠られて方が良いでしょうねぇ、と言うことだった。 それを訊いて相変わらずドクドクは続いているのだが、不安感は急にどこかへ吹き飛び無くなってしまった。 睡眠薬を飲んで嫁さんへオヤスミの電話を入れて、その話の経過を簡単に説明した。 彼女は、ドクドクするのは背中のどの辺りなの?と訊くので丹田の裏側、と答えると、背中の真ん中辺り?と訊くので、そうだ、と答えると、バカねぇ腎臓は二つあって、左右に分かれているから、腎臓が背中の真ん中と言う事はありえないわよ、と言う答えだった。 オフは腎臓には副腎と言うものがあって左右の一方が腎臓で片方が副腎であると思っていたが、嫁さんが言うには腎臓は左右に二個あってその上に副腎がそれぞれ乗っかるようにしてあるのだと教えられて、そんな事なども知った。 その夜睡眠薬を飲んで寝たが、あくる朝背中のドクドクは嘘のようになくなっていて、朝の採血の結果白血球が7700という数字が出た。 その前の回の結果が800だったから、まさにその夜のその時に急増していたのであろう。 もちろんこれは薬グランのせいでもあるので、グランの点滴は即中止になった。 その後白血球は12300まで上がり、現在4400、医師としてはとりあえず再入院の頃の数値3000台(正常値は男子で5000から8500)に落ち着くことを予想をしているらしい。
 骨盤内の骨髄のドクドク感は生まれて初めての経験。 自己のすべてを知りたい脳はそれに不安を生み出させた。 それが正しかろうが間違っているだろうが、どうであれ納得できる説明がなされれば同じ身体のことでありながら脳は安心して不安は引っ込んで一応安心する。 それが、先祖祀りをおろそかにしているからだ、とか悪いキツネがついている、とかという説明であろうとも、とりあえず納得できれば安心し不安は解消される。 この関係こそ、同じ個人の身体と脳の関係を如実に物語っているように思える。 どういうことかと言えば、脳はまさに自我であり、身体とは養老猛氏が言うように自我の外なる自然なのである。